【文永】元寇の軍事分析【弘安】  【日本】

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1 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 03:15:57 ID:???
鎌倉武士が2度にわたってモンゴル軍を粉砕!!




3:名無し三等兵:2007/09/09(日) 03:42:33 ID:???
日本は当時世界最強。
論拠は当時世界の大部分を支配していたモンゴル軍を完膚無きまでに叩き潰したから。
日本は世界で唯一重装弓騎兵を使い人間の身長より長い弓を使っていた。
神風によって日本が勝ったと言うのは戦後の歴史家の陰謀。

反論はあるか?

5 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:09:51 ID:???
あの国の法則が発動しただけだろ

6 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:10:04 ID:???
モンゴルにも騎槍&湾刀&合成弓を装備した重装騎兵がいたし、類似の装備の重装騎兵
はアフガニスタンに起こったトルコ系のハルジー朝にもいた。
まあビザンツ朝の重装騎兵も槍、盾、湾刀、弓で武装してた。
重装弓騎兵なんて当時じゃありきたりの兵種。>>3無教養をさらして満足したら帰れや。

7 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:10:45 ID:???
ベトナムが世界最強とか言ってる様なもんだろ


8 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:30:41 ID:???
>>7
ベトナムは1257年に僅か3000のモンゴル軍によって首都を占領された国。
文永の役で4万、弘安の役で14万のモンゴル軍を、大宰府に指1本触れさせないまま
撃退した日本より強いなんてことは、ありえない。


9 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 11:43:16 ID:???
そんな大雑把に最強だのなんだのと決めれるんだったら

日本=アメリカに負けた

ベトナム=アメリカ撤退

よってベトナム>日本とかになるだろ


10 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 12:50:10 ID:???
>>9
第二次大戦中の日米の戦いと、冷戦中のベトナム戦争とは、異なる時代に、全く違う状況下で行なわれた戦争。
それに対し、モンゴル帝国の日本とベトナムに対する侵略戦争は、フビライという同一人物のもと、同じ時代に
並行して行なわれた戦争。
その結果、ベトナムが攻め込まれる度に首都を占領され、王族を人質に差し出し、朝貢を認めたのに対し、日本は
まったく橋頭堡を築かせないまま撃退し、最後まで完全独立を維持した。
当時、ベトナムより日本の方が強かったのはあきらか。


12 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 14:14:59 ID:???
>>4
>>6
>8と>10さんに反論してみろ。
すぐにだ。

13 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:24:56 ID:???
>>6だけど>>8と>>10に何を反論すればいいわけ?
さっぱりわからない。具体的に反論すべき文脈を教えてようw


14 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:27:05 ID:???
>ベトナムは1257年に僅か3000のモンゴル軍によって首都を占領された国。
>文永の役で4万、弘安の役で14万のモンゴル軍を、大宰府に指1本触れさせないまま
>撃退した日本より強いなんてことは、ありえない。
>第二次大戦中の日米の戦いと、冷戦中のベトナム戦争とは、異なる時代に、全く違う状況下で行なわれた戦争。
>それに対し、モンゴル帝国の日本とベトナムに対する侵略戦争は、フビライという同一人物のもと、同じ時代に
>並行して行なわれた戦争。
>その結果、ベトナムが攻め込まれる度に首都を占領され、王族を人質に差し出し、朝貢を認めたのに対し、日本は
>まったく橋頭堡を築かせないまま撃退し、最後まで完全独立を維持した。
>当時、ベトナムより日本の方が強かったのはあきらか。


これに反論するんだよ。
そんな事も解らないの?w

15 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:42:10 ID:???
>>14
>>3のおバカさんは重装弓騎兵が日本にしか存在しなかったと言ってるから重装騎兵が弓を使うのは
当時ありふれていたと>>3に指摘したまでだが。
ああ、あとモンゴル軍と日本鎌倉武士軍が同等の条件(充分な機動作戦の余地、アウェイでの補給の有無)等を
克服してモンゴル軍に勝ったならモンゴル軍最強といえるかもね。

まさか渡海侵攻軍と防御側で条件が同等とは思ってないよね。鎌倉幕府軍が渡海侵攻して大都を攻略できた?
そこまでできなくとも橋頭堡を確保できたの?


16 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:44:53 ID:???
おっと修正
>>15 誤)克服してモンゴル軍に勝ったならモンゴル軍最強といえるかもね。
   正)克服してモンゴル軍に勝ったなら鎌倉軍最強といえるかもね。


17 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:59:10 ID:???
>>15
騎兵部隊の海上輸送なんか、ウィリアム征服王や十字軍だって普通にやっている。
大モンゴル帝国にできなかったとしたら、そっちの方が問題だろ。
対馬海峡を超えて戦力投入することなんか、大昔から誰も苦労なんかしていないぞ。
391年に日本から朝鮮半島に渡った軍勢は、新羅・百済を征服。
663年の白村江の戦いでも、日本から2万7千もの大軍が朝鮮半島に渡っているし。

現実に文永の役でも弘安の役でも、普通に万単位の元軍が渡航してるじゃん。
元寇の際の防御の有利さなんて、元軍の数的有利と奇襲効果で簡単に相殺されてしまう。
文永の役でも弘安の役でも元軍は揚陸には成功している。
その後の陸戦で負けただけ。
よって日本海は関係ない。
元寇はほぼ同時期の東南アジア侵攻と比較して、一桁多い兵力によって行なわれているが、
これは船舶の輸送力を利用できたから。
さらに鎌倉幕府は長門や京都でも万単位の兵力を動員しているが、これも元軍が日本海や
瀬戸内海を利用し、大宰府以外の場所を襲撃する可能性を捨て切れなかったから。
お陰で鎌倉幕府はその兵力を九州防衛に集中させることができなかった。
つまり鎌倉武士は日本海のせいで、より厳しい条件で元軍と戦わなければならなかったと
いうこと。


18 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 15:59:57 ID:X3SPkhPB
鎌倉武士が世界最強というつもりはないが元寇の2度の戦いは鎌倉武士軍が戦闘に勝利したのは事実。
日本に負けて散々な目にあったのは事実だから。
文永の役では3万の元軍わずか5千の鎌倉武士軍に負けてたった1日で戦意喪失。
撤退したところ玄界灘の暴風雨で船が転覆。

神風でも何でもなく鎌倉武士軍の戦闘による勝利です。


19 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 16:04:29 ID:???
日本に侵略しようとしたのは元だけではない。
チョンも、連合軍として参加していた。

20 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 16:15:30 ID:???
>>17
>騎兵部隊の海上輸送なんか、ウィリアム征服王や十字軍だって普通にやっている。
>大モンゴル帝国にできなかったとしたら、そっちの方が問題だろ。

でも昭和のマレー作戦でも海上輸送による馬匹の損耗を非常に警戒している。
結果的に杞憂に終わったんだけどさ。>>17が挙げた例はあくまで「成功したエピソード」だから
適切な提示だとはいえないんじゃないだろうか。

あと問題は渡航じゃなくて補給の継続だから、百済を策源地に出来た日本側と比べても仕方ない


21 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 16:42:46 ID:???
一度目は弾薬ど持ってきてないし、二度目はやる気のない南宋兵主体だから、元軍撤退=日本最強はちょっと違う。
世界最強クラスなのは、むしろ朝鮮征伐時の日本軍。

22 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 16:51:29 ID:X3SPkhPB
>>21

戦場に出向いて、しかも海を越えてまで行ってやる気なしなら殺されるだけですよ。 っていうか南宋兵中心の南路軍が東路軍と合流したのが旧暦7月20日。
7月27,28日にかけて海戦が行われこのときは鎌倉武士軍によって約千艘近くが焼かれたり破損したりしてるが、船の補修のため一旦壱岐に引き返し7月31日に台風直撃。
実際には弘安の役だって鎌倉武士はほとんどを蒙古、満人、漢人、高麗人中心の東路軍相手に費やした。

あと関係ないけど朝鮮征伐時の日本軍だが韓国人がやたら誇るイ・スンシンって明史には一行も書かれてないんだよね。



23 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 17:13:28 ID:???
>>22
やる気がないという言い方がまずかったのかな?正確には南宋兵は戦意が低い。 あと、江南軍はつかえねー奴らだけど、君も書いてるようにそいつらとの合流、上陸作戦初期の戦力集中にさえ失敗してる。
これじゃ常識的に考えても石塁まで用意して元側とほぼ同数まで兵力をかき集めてきた日本側には勝てない。
結局、元軍は負けるべくして負けた戦い。


24 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 17:31:45 ID:X3SPkhPB
当時は無論、現代的な意味での民族主義はなかった。
しかし鎌倉幕府は鎌倉殿と御家人との間で御恩奉公の関係はあった。
承久の乱などでも手柄立てた御家人には恩賞が与えられたがこれが武士たちの戦闘意欲を高めたのかな。

25 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 17:38:17 ID:???
幕府「藻前ら!元は侵略したら当然藻前らの土地分捕るつもりだYO!」
御家人「な、なんだっt(ry」
こんな感じで御家人を焚きつけまくった。

26 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 17:46:43 ID:QWm5+RRh
まあモンゴルがあれだけの大帝国となったのは全ての戦争をモンゴル人だけでやったわけでは当然ない。
大帝国なんて征服した民族から新規に兵を調達し次の戦争へ使うなんてこのの繰り返し。
征服された民族だって大帝国の中で生き抜くには帝国の忠実な軍隊となることなど世界史的に珍しくもなんともないこと。
満州人の清朝だって軍事の中核は漢民族部隊の緑営だった。
別に空前の世界帝国を作ったモンゴルが日本遠征に限り愚かで戦争に無知だったとかというわけでは決してないだろう。
鎌倉幕府の御恩と奉公の関係は空前の大帝国をも撃退出来るシステムだったといっていいのでは?


27 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 18:06:22 ID:???
>>17
これって今の海上保安庁の密輸密航摘発や自衛隊の人員配置にも言えるよなあ。
長い海岸線をどうやって守るのか…。


28 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 18:18:05 ID:???
>>26
元は渡洋作戦の経験は少ないし、作戦面では不手際だらけでしょ。
なんか米帝のような世界最強の軍事国家を撃退したウリナラの政治システムは世界1!みたいな言い方はちょっと・・・。
だいたいご恩と奉公の関係って封建制度の亜種みたいなもんで当時としてはその種のシステムは大して珍しくないのでは?


29 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 18:36:33 ID:QWm5+RRh
いやそういう意味ではなくて日本を攻めて来た元という国の国力を軽視するのもどうかと思う。
鎌倉幕府のシステムを必要以上に過大評価するわけでないが
当時の日本だってそれ相応の国力があり鎌倉幕府のシステムはそれを生かせるだけの
ものがあったと。
実際鎌倉幕府は承久の乱当時10万以上の兵で京に攻め上っているから弘安の役のときの
元軍14万だって決して兵力でかなわないというほどではない。
ちなみにバトゥのヨーロッパ遠征ではモンゴル12万に対しドイツ・ポーランド諸侯連合軍はわずか3万しか集められなかった。
当時の日本の人口、農業生産(米の二毛作はほぼ全国に普及。宋代の中国より早い
そしてその後の室町時代は日本刀や日本の鎧などが主要な輸出品だったことを思うと手工業なども相当に発達していた。
それだけの力はあったと思う。モンゴルに軽く征服された弱小国以上の国力があったのでは?


31 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:20:47 ID:???
>>28
元軍は渡洋作戦の経験が少ないというのは誤解。
元軍は元寇直前に三別抄相手の珍島や耽羅への渡洋作戦を経験しているから、
文永の役が3回目で弘安の役が4回目。
同じ部隊が実戦でこれだけの渡洋作戦を経験しているなんて珍しい部類だろ。


38 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 19:54:24 ID:???
確かに珍島は近いが、耽羅へはそれなりの距離がある。
それに耽羅遠征は文永の役の前年。
元軍にとっては、文永の役直前に手頃な距離の手頃な相手にスパーリングできたようなもの。
かなり恵まれた状況だと思うが。


43 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 20:59:55 ID:???
1、日本は王権が古来から比較的強く
2、農業生産力ばかりでなく、鎌倉政権と言う軍事政権が国内統治をある程度掌握、
  軍事動員体制も含めて国力があった
3、経験があったとは言え当時の気象条件や造船技術の下では渡海上陸戦は不利
4、さらに地理的にも高麗頼みで不案内
5、何よりも蒙古襲来を予測して備えを固めていた幕府・御家人の防備が優秀


こんなところ?

56 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:20:18 ID:???
ん? モンゴル軍と高麗兵は圧倒的に強かっただろう。
ただ彼らには運がなかったし、士気も低かった。
モンゴルの尖兵となって日本なぞという未開の僻地へ寄越され、厭戦気分が蔓延していた。
それでもゴミ以下の鎌倉武士は簡単に粉砕できたが、内輪の問題はそうも行かない。
そのうえ何せ、決まり手は台風だからな……


57 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:37:21 ID:???
>決まり手は台風だからな……

いまだにこんなことを信じているとは・・・

60 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:40:24 ID:???
モンゴル軍と高麗兵の士気は高かったぞ。
特に高麗兵はやる気満々だった。
でも、悲しいことに鎌倉武士には全く歯が立たなかった。
蒙古襲来絵詞には血まみれになって鎌倉武士から逃げ回る、高麗兵とモンゴル騎兵が描かれている。
何より高麗自身の史書である高麗史にはっきりと「戦って負けた」と書いてあるしな。


『高麗史』87巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」

61 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 22:44:41 ID:???
>>58
ちゅうか最近の教科書では決まり手は台風って書かれなくなりました

65 :名無し三等兵:2007/09/09(日) 23:59:56 ID:???
>>60
そういうのって絵巻なんぞがどこまで史実どおりなのか疑問だし
高麗史だって負けたといってるのは元も含めてなのか
単に朝鮮軍がボロ負けしたのかの区別も付かないし
情報収集や共有もままならなかった時代にどこまで
ただしく把握してたのか疑問なのに歯が立たなかったなんて表現して大丈夫かよ
6

6 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 00:25:20 ID:???
でも長篠合戦図屏風とかって、
旧通説じゃなくて最近の有力説を唱える研究者にも引用されるよね
武田軍の部隊編成なんかで
もちろん誇張はあるけど、史料批判を通過すれば使えるんじゃない?

67 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 04:43:18 ID:???
>>65
古今東西、どんな合戦でも最重要史料は、実際に戦闘に参加した兵士の残した史料。
当然元寇でも史料の重要度は、蒙古襲来絵詞>>>その他の史料。


68 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 06:08:37 ID:???
文章じゃなくて絵って誇張が相当入ると思うが

しかも国内合戦ならともかく侵略戦争で



69 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 06:39:19 ID:???
>>68
蒙古襲来絵詞って絵だけじゃなく文章もついてるの。


「・・・武房に、凶徒赤坂の陣を駆け落とされて、二手になりて大勢は麁原に向きて退く。
小勢は別府の塚原へ退く。塚原より鳥飼の汐干潟を大勢に成り合はむと退くを追駆くるに、
馬干潟に駆せ走して、その敵を延ばす。凶徒は麁原に陣を取りて、色々の旗を立て並べて、
乱鉦暇無くして犇めき合ふ。・・・」

こんな感じでね。
これは赤坂で菊池武房にボロ負けした元軍が、二手に分かれて麁原まで敗走する様子。



71 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 07:30:37 ID:iIoRQ8TR
和弓と日本刀の性能を考えたら頷けないこともない。
当時世界最強の弓にして、世界最強の刀と言っても差し支えない。
和弓は金神頭という、置盾を砕くための矢まであった。


72 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:30:43 ID:???
>>69
宣伝の為にかかれたんだろ?
それを文面通りに受け取ってどうする。


73 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:40:32 ID:???
>>72

蒙古襲来絵詞が「恩賞たため書かれた」とかいう話は嘘だから。
実際に絵巻について調べれば簡単に嘘とわかるレベルの話だし、まともな本で
そんなことを書いているものもない。
それが何でこんなに広く流布されているのか・・・


74 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:51:13 ID:???
そこでGHQの陰謀ってつなげるんだろ?


75 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:58:21 ID:???
>>73
自身の戦功を書かせたと言う時点で宣伝だろう。
なんでそんな物を聖典みたいに扱うんだ?


76 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 08:59:54 ID:RnMc5pio
いずれにせよ弘安の役のときの14万程度の軍ではとても日本征服は不可能だったろう。
フビライの誤算は日本の国力を過小評価しすぎたことか。


77 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:00:11 ID:???
要するに、当事者によって書かれたからガリア戦記の記述に問題は無いと言う事でいいのか?


78 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:06:27 ID:???
>>74
GHQの占領政策としての戦後歴史教育への介入は、公然と行なわれたんだから、
陰謀云々の話じゃないだろ。
お前は、GHQが不都合と判断した歴史教科書の記述を、戦後の子供たちが墨で
塗りつぶすように指示された話を知らないのか?


80 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:09:24 ID:???
>>77
ガリア戦記は、普通にローマのガリア征服の最重要史料じゃん


81 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:21:03 ID:???
>>80
その記述に問題や宣伝が無いと言う歴史家は誰一人としていない。
重要な史料である事とそれの記述に問題あると言う事は矛盾しない。
そして日本最強厨は単にその方が気持ちいいから妄信してるだけだ。


82 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:22:53 ID:???
>>81
同時代人の元老院議員に向けた説明なんで、あんまりあからさまな嘘が書けなかった
っていう事情があったんで信用度が高いという評価をうけているんだが。

83 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:26:33 ID:???
>>81
じゃあ、元寇に関して記述に問題の無い史料で何だよ?
どんな史料のどんな記述にも多かれ少なかれ問題はある。
元寇について、日本に不利な内容ならどんな怪しげな文献の荒唐無稽な記述でも
平気で受け入れるくせに、蒙古襲来絵詞だけを信用できないなどというのは、
史料に対する公平な扱いじゃ無いだろ。


84 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:32:55 ID:???
>じゃあ、元寇に関して記述に問題の無い史料で何だよ? そんな物ない。
だから史料批判と言う言葉がある。

>元寇について、日本に不利な内容ならどんな怪しげな文献の荒唐無稽な記述でも
>平気で受け入れるくせに、蒙古襲来絵詞だけを信用できないなどというのは、
>史料に対する公平な扱いじゃ無いだろ。
そんな事は言っていない。
自分の武功の宣伝と言うあからさまにバイアスが入ってそうな史料を妄信するのはおかしいと言っている。


85 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 09:39:29 ID:???
>>84
蒙古襲来絵詞は、自分の武功の宣伝のために作成されたとは考えられていない。
恩賞奉行として御家人たちの戦功を査定した安達氏に対する追慕のため作成されたというのが定説。

自分の武功を誇張したりしたら、安達氏に対して追慕どころか、当て付けにしかならないだろ。

87 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:10:07 ID:RnMc5pio
「蒙古襲来絵詞」は世界の多くの学者によって史料批判はされている。
鎌倉武士の集団騎馬武者攻撃に逃げ惑う蒙古兵の装束は中央アジアで発見されたモンゴル軍を描いたものと見事一致した。
モンゴルは世界帝国だっただけに研究対象は世界中で多い。
その世界各国の学者が調べた上で価値が高い史料と判断されたもの。
しかし竹崎季長に向かって弓を引いている3人の兵だけは他の蒙古兵と比べ装束色彩が異なっている。
この3人に関しては後世の加筆であることが最近になって判明。史料的価値は全くないという結論に至った。

史料批判というものはこういうもの。
史料のすべてを盲信したりもせず前面否定もせず何が真実で何が真実でないかを見極めることをいうのだ。

ちなみに学校教育においてこの蒙古襲来絵詞は騎馬武者の先頭になって突撃する竹崎季長と
その前で弓を引く後世加筆の3人の兵士のみをカットして記載。
3人の兵の左側で逃げ惑う蒙古兵は記載されず。また季長の右側にいる騎馬軍団も一人も載せない。
そんなカットを教師は鎌倉武士は単騎で集団の中に突撃して元軍の集団戦術に苦戦したなどと教えている。
思えばひどい教育受けたものだ。


88 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:22:28 ID:RnMc5pio
高麗の忠烈王は元の南宋攻撃の際、従軍する処女500人差出せと命令されたら、
婚姻禁止令まで出して実際に高麗の女を蒙古兵に差出した。
これってあの国の伝統?
それにしても高麗の番犬ぶりはお見事。
いつの時代でもあの民族ってこういう体質であることがよくわかるよね。
93 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:37:27 ID:???
文永の役
元軍は御家人の抵抗を排除して上陸に成功するが
矢を使いすぎて、大宰府を占領できずに撤退、
その際に博多を荒らしまわる。

弘安の役
幕府が防壁を築いていたので元軍は上陸できず海に釘付けにされる
そのご台風が来て大打撃



94 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:38:46 ID:???
文永の役での御家人の数は数千人ほどで
少なかった。(援軍は次々に来ていたが)
博多占領もそうしたことが原因だろう

97 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:46:27 ID:???
文永の役は日本の史料にも高麗の史料にも「元軍が戦って負けた」とかいてある。

鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」

帝王編年記
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」

高麗史87巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」

信頼できる文献に
「元軍が博多を占領した」などと書いたものは存在しない。


98 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:47:57 ID:RnMc5pio
やっぱり番犬の高麗は最弱だったんだ。

100 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:49:34 ID:???
竹崎季長が戦った敵て高麗軍だろ

103 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:54:20 ID:???
>>100
竹崎季長がいたのは赤坂


104 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:55:53 ID:???

海岸から一掃されて御家人のどこが勝ったんだよ


107 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 10:58:59 ID:???
高麗史に書かれた上陸地点に居たのは松浦党。
高麗史に元軍が少弐氏率いる御家人たちに勝利したという記述は無い。


110 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 11:03:30 ID:???
>>104
「御家人が海岸から一掃された」の根拠となっている八幡愚童訓には、
「元軍もボロ負けして海岸から一掃された」と書いてあるぞ。
何で片方だけを受け入れるのさ?


113 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 11:17:28 ID:RnMc5pio
>>108
神風云々なんて江戸時代の学者だって一言もいってないんだが。
ちなみに昭和天皇が受けた教育でも神風など一言もなかったらしい。


ある意味、元寇の鎌倉武士の合理的な戦い方をきちんと勉強しなかったから昭和の悲劇は起きた。



114 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 11:21:16 ID:???
八幡愚童訓に書かれた文永の役の元軍敗退
「夕過る比、白装束の人、三十人計、筥崎宮より出て、矢さきを、そろえて射ると見えしは、
神の降伏し給ひしなり、此降伏に、へきえきして、松原の陣をにけ、海に出るけるに、
あやしき火もめくり、船二艘、顕はれ出て、皆うたれ、たまたま沖に、にけたるは、
大風に吹しつけられにけり」

この八幡愚童訓をソースに「御家人が大宰府に撤退した」とか言っておきながら、
一方で元軍の敗北は認めないってのは、一体どういうことだ?




122 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 14:36:32 ID:RnMc5pio
>>113
確かに寺社勢力は自分たちも土地ほしいから言ったが江戸時代の頼山陽の「日本外史」などには
戦闘で戦って勝ったとあり神風思想など全く影も形もない。


124 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 17:31:55 ID:RnMc5pio
ところで元寇当時のモンゴルと日本の力関係は16~17世紀のオスマン・トルコとサファビー朝ペルシアに例えるのは無理があるかな。
トルコの方がより強大であったがペルシアもそれなりに実力があったからトルコはバルカン諸国や北アフリカの国々などは次々と征服したが東への侵攻はサファビー朝に阻まれてメソポタミアまでしか拡大できなかった。
まあ13世紀のモンゴルはオスマン朝以上に強大であったが。
どうも日本の歴史というものを明治維新まで常に世界の後進国で日本はちっぽけな国で
遅れていたなんて短絡的な見方をする呪縛から未だ 抜けられない考え方の学者が多いような気がする。
鎌倉時代というのは米の二毛作の普及で農業生産が随分と飛躍した時代。
また鎌倉幕府は承久の乱で10万以上動因した政権。
モンゴルとてそんなに安易に征服できるような国では無かったのではないかと思うが。



130 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 20:34:53 ID:RnMc5pio

鎌倉武士が名乗りを上げての一騎打ちを挑んで元軍の毒矢戦術や集団攻撃に多数の死者を出した
などという教科書的な解釈はもう卒業すべきでしょう。
それが事実なら3万の元軍に対し博多に出向いた武士軍団は5千。
城に篭っての篭城戦ならともかく野外戦であるから教科書が事実とすれば午前に始まった戦闘は日没まで続くはずがない。

南北朝時代の何かの文献に護良親王が矢を体中に受けたような苦戦ぶりが書かれていたが別に親王は戦死していない。
また日本刀は室町時代の日明貿易の主要な輸出品。
中国では倭刀を剣で受ければ刃が折れると言われていた


133 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 21:22:50 ID:???
まあ、頑丈ではあろうな
こないだ、タイの剣作成の様子を見て山田長政が活躍したか納得した
だって、タイの刀剣って二枚の鉄板を繋ぎ合わせる作業から入るんだよ。

137 :名無し三等兵:2007/09/10(月) 21:51:42 ID:RnMc5pio
>>133
タイの剣作成の様子についてもっと詳しく知りたいのですが。


139 :名無し三等兵:2007/09/11(火) 00:33:16 ID:???
>>137
NHKの「その時歴史が動いた」の前番組(松平アナではない)で、山田長政の特集中で見た。
確か「堂々日本史」だったかな。
アユタヤの日本人街跡から陶器や畳、五右衛門風呂など出てきて、タイ在住の日本人の生活ぶりが興味深かった。
他国でも日本人流で住む人たちを思い起こして、望郷の念とかあったのかなあ、とか考えさせられて、非常に面白かった。

その時に刀剣の話が出てきて、二枚のパーツで刃を作るタイ方式が紹介されていた。
戦国時代崩れで戦慣れしていた当時の日本人親衛隊は当然日本刀装備で勇敢だったらしい。


140 :名無し三等兵:2007/09/11(火) 07:38:41 ID:???

日本刀の陰に隠れていますけど、和弓って実は凄い兵器ですよ。
ヨーロッパで戦術に革命をもたらしたロングボウは1.4m~2mくらい。
一方、当時の和弓は7尺5寸が定寸でした。
ロングボウは木材のみの単一素材弓ですが、
和弓は木材と竹を複数張り合わせた合板弓です。
特に竹という素材は靱性に 優れていて弓の素材としては最適です。
さらに和弓では竹に火を通して炭化させて 使用しています。
竹は炭化させると性質が変化し、より弾性が強化されるんです。
一種のカーボン素材ですね。
また、大型弓なんで使用する矢も長く重くなります。
矢が重いということは命中した 時の威力が高くなるということです。
トルコ弓が開発されるまでは世界一の威力だった
のではないかと個人的に考えています。

141 :名無し三等兵:2007/09/11(火) 08:31:12 ID:???
>トルコ弓が開発されるまでは

トルコ弓と蒙古弓は基本的に同じものでしょう。


142 :名無し三等兵:2007/09/11(火) 10:06:59 ID:???
>>141
完全な別物


143 :名無し三等兵:2007/09/11(火) 10:17:53 ID:???
>>142
どの辺が?


144 :名無し三等兵:2007/09/11(火) 10:56:01 ID:???
>>143
19世紀のトルコ弓は、モンゴルの弓みたいな2重S字形じゃないよ

146 :名無し三等兵:2007/09/11(火) 12:54:57 ID:Isz7hFjp
>>130
中世において10万以上の軍を動員できる国などそんなにない。
そういう意味では大帝国VS極東の弱小島国といった先入観を取っ払って
大国同士の戦いと見方かえていいかも。

大体あのチムールだってオスマン=トルコとのアンカラの戦いで動員したのは20万、
明遠征も20万、オスマン=トルコのスレイマン1世がウィーン包囲したときも20万。
元の日本遠征は海を越えてとなるわけだから弘安の役の14万は当時としては最大限といったところか。
明の永楽帝の宦官鄭和の大遠征は5万程度でそれでもセイロンその他の戦闘では無敗だったから。


149 :名無し三等兵:2007/09/12(水) 08:34:23 ID:euyOYZXU
>>146
そういう見方をすると鎌倉時代の日本って世界有数の大国のような感じがする。



150 :名無し三等兵:2007/09/12(水) 10:12:58 ID:???
十字軍からエルサレムを奪還したことで有名なサラディンが、1179年にエジプトで動員できた兵力は、
アミール111騎、タワーシー軍団6976騎、カラグラーム軍団1553騎の合計8640騎。


152 :名無し三等兵:2007/09/12(水) 11:56:20 ID:jVv6wQKJ
島国で朝夜構わず、無尽蔵な兵員で襲撃されたら
元軍に勝ち目は無い、ジリ貧になり確実に弱体化


157 :名無し三等兵:2007/09/12(水) 18:15:43 ID:???
アイヌもサハリンとかで元軍と戦っていたんだよね


161 :名無し三等兵:2007/09/12(水) 21:26:44 ID:???
日本の弓は、張力は、ほぼ手で引ける限界に達してるし
弓の大きさは(長さ)は、大きな方なので、世界的にみても
威力は高い方なのは間違い無い。
ただ取りまわしとか命中精度には、疑問はあるな。



172 :名無し三等兵:2007/09/13(木) 08:42:50 ID:???

現在使用されている和弓の張力なら一人で弦を張れるよな
張力70㎏でも二人居れば弦を貼れるだろ
とすれば三人張りの弓の張力は、それ以上ということ


176 :名無し三等兵:2007/09/13(木) 12:41:11 ID:mvJQ6ZPN
現在の一般向けに作られている和弓と往時の戦闘用の和弓を比べてはいけない。
33間堂の通し矢の記録は現代の名手をもってしても再現できてない。
和弓は弓の性能もさることながら、鏃も大型のものが使われている。
狩又やら平根なんてとても鏃とは思えない。クナイ並の大きさ。

盾を砕くための鏃まで存在したらしい。凄まじい話だ。


>>172
五人張りの弓というのも聞いたことがある。


196 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 05:25:32 ID:???
戦争はスポーツじゃねーだろ
武士がどんなに強かろうが、モンゴルの様な遠征軍とか無理
中国上陸しただけで息切れ



197 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 06:51:04 ID:???
倭寇がこのあと復讐も兼ねて向こうの沿岸部を荒らしまくるんですけどね。


198 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 08:17:40 ID:???

現実にこの時代の遺構には、藤原氏が築いた阿津賀志山二重掘みたいなものも存在している。
全長約3キロで建設に必要と推定される人夫はのべ20数万人。
全長約3キロの防塁が想定しているのは、当然双方が万を大きく上回る規模の合戦だろ。



199 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 08:51:39 ID:dju2KMgX

となるとこの時代の日本は十字軍とサラディン軍との戦いより遥かに大規模な戦争が何度も行われてるんですね。
でも何で中世のヨーロッパなんてはっきり言って僻地みたいなもんなのにヨーロッパの戦争が
世界史の大事件で中心的な出来事のように教わったんだろ。

いずれにせよバトゥがワールシュタットでドイツ・ポーランド諸侯連合を瞬時に壊滅させたようなことは日本では絶対に不可能だったでしょうね。
やはり当時の日本は大国のひとつであり北条政権は数々の矛盾を抱えていたとはいえ元寇の際にはそれを表面化させず一致して当たれた。
日本が内部分裂でもしない限り全土が征服されるなんてありえないことだったと思う。



202 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 11:28:31 ID:???
素朴な疑問として山がちな日本の地形でモンゴル騎兵ってどうなのかしら?



205 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 15:44:07 ID:???
>>202
元軍と日本軍が戦ったのはオープンスペース。
騎兵を活用するには絶好の場所。
そして元軍はわずか15%の数の日本軍に完全に粉砕された。
この事から世界最強が鎌倉武士なのは明らか。


207 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 16:14:45 ID:???
>>182
日本が弘安の役で勝利したモンゴル軍は、マムルーク軍がアイン・ジャールートで勝利した
モンゴル軍の10倍以上の規模。
マムルーク軍の戦いなんて日本のそれとは比較にならないスケールの小さな戦いだよ。

210 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 16:42:51 ID:???

あと「平安時代なら負けていた」とかほざいていたが
バカチョンは平安時代から対馬や九州を度々王の命令で侵略していたが尽く失敗 している。


215 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 17:19:25 ID:???
大兵力のモンゴル軍に勝利したのは事実なんだから、日本の軍事力の過大評価なんじゃ全くないだろ。
普通に当時の世界で日本は圧倒的な軍事大国。



216 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 17:22:53 ID:???

対馬海峡を超えて戦力投入することなんか、大昔から誰も苦労なんかしていないぞ。
391年に日本から朝鮮半島に渡った軍勢は、新羅・百済を征服。
663年の白村江の戦いでも、日本から2万7千もの大軍が朝鮮半島に渡っているし。
現実に文永の役でも弘安の役でも、普通に万単位の元軍が渡航してるじゃん。
文永の役でも弘安の役でも元軍は揚陸には成功している。
その後の陸戦で負けただけ。
よって船旅は関係ない。
さらに鎌倉幕府は長門や京都でも万単位の兵力を動員しているが、これも元軍が日本海や
瀬戸内海を利用し、大宰府以外の場所を襲撃する可能性を捨て切れなかったから。
お陰で鎌倉幕府はその兵力を九州防衛に集中させることができなかった。
つまり鎌倉武士は日本海のせいで、より厳しい条件で元軍と戦わなければならなかったと
いうこと。



217 :210:2007/09/14(金) 17:27:47 ID:???
つまり日本は不利な状況で6倍以上の敵(しかも世界最強の元軍)と正面から戦いそれを叩き潰したわけだ。
そして弘安の役では事前に海岸線を要塞化し上陸すら許さず、元軍の艦隊は武士から逃げ回ってる内に勝手に嵐に巻き込まれて全滅。

世界最強のモンゴル騎兵も鎌倉武士の前には無力。


218 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 17:32:46 ID:???
ここで必死になって日本最強を否定してるのは在日じゃなくて白人様が黄色いジャップ如きに劣ってたと認めたくない肉便器だろ。
日本最強を認めれば必然的に雑魚のモンゴルに滅茶苦茶にやられたロシア、ポーランド、ハンガリーなどはそれ以下のゴミになるし、モンゴルは白人様が何回やっても征服出来なかったサラセン人もあっさりと倒してるからそれも間接的に白人様の弱さを証拠づける。



221 :210:2007/09/14(金) 17:40:51 ID:???

防塁に阻まれて上陸出来ず、ようやく防塁の無い志賀島に上陸するもあっさりと海を追い落とされる。
その後武士から逃げ回ってる内に江南軍がやっと到着して合流するがすぐに嵐に巻き込まれて壊滅。



222 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 17:41:39 ID:???
ベトナムは1257年に僅か3000のモンゴル軍によって首都を占領された国。
文永の役で4万、弘安の役で14万のモンゴル軍を、大宰府に指1本触れさせないまま
撃退した日本より強いなんてことは、ありえない。
ベトナムが攻め込まれる度に首都を占領され、王族を人質に差し出し、朝貢を認めたのに対し、日本は
まったく橋頭堡を築かせないまま撃退し、最後まで完全独立を維持した。
当時、ベトナムより日本の方が強かったのはあきらか。

226 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 17:52:49 ID:???

日本から朝鮮半島を攻めた戦いでは、「対馬海流の速さを考慮しているのか?」なんて誰も言わないのにね。
それって、単に負けたことの言い訳だろ。


229 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 17:58:54 ID:???

慶長の役と比較すれば、ほぼ同数の兵力を投入しながら海岸から10キロちょっとの
大宰府にすら到達できなかった元軍の弱さが際立つだけ



230 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 18:33:28 ID:???
>>186
為朝の弓は8尺5寸、矢の長さ十五束、8人張りの強弓と言われている。
1矢で大鎧を着た武者3人を貫通させた記録がある。
矢継ぎ早に射るのも得意だったとか。まあ、伝説だろうが。

でも、5人張りの弓は伝説の類でなくて、実際にあったらしいです。
当時の弓は7尺5寸、矢の長さ十二束が標準とされたが、
古墳などからは全長3mを越える超大型の弓も発掘されている。
サイズで言えば和弓は世界最長でしょう。


>>176さん
実際に置盾を射砕くためのヤジリ?も存在しました。
カナジトウとか言う奴です。
平たく言えば、矢の先端に鉄球を付けたような矢です。
貫通力よりもストッピング パワー重視のヤジリです。



233 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 21:54:54 ID:???
南朝鮮は一度も国際紛争に勝ったことがない最弱国


234 :名無し三等兵:2007/09/14(金) 22:18:13 ID:58GXFp5G
>>201
ドイツ・ポーランド諸侯連合は盟主シレジア候が首を取られた。
北条時宗は鎌倉を一歩も動かず。


235 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 00:26:41 ID:???
ワールシュタットって
ドイツ諸侯連合軍は農民も含んだ寄せ集めの4万に対して
モンゴル軍は15万いたらしいんだから
モンゴル軍が勝って当たり前じゃないの?



236 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 00:44:45 ID:???
羊あわせて15万


237 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 04:16:07 ID:???
>>234
それにしても「瞬時に壊滅」したというのは間違いだしモンゴル軍も無視出来ない損害を受けた。
そもそも本拠地を直接侵略されようとしてるんだから盟主も出陣するのがそんなにおかしいか?
仮に元軍が鎌倉付近まで侵攻して北条時宗が鎌倉から動かなかったら変だと思うが。



238 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:17:45 ID:+jVGSa2B
敗戦と勝利の間には天地の差。兵の動員能力も強さの証。
>仮に元軍が鎌倉付近まで侵攻して北条時宗が鎌倉から動かなかったら
鎌倉まで侵攻できたらの話でしょ。

ワールシュタットばかり有名だけど、モヒの戦いでもヨーロッパ諸侯軍は大敗くらってるよ。
国王ベーラ4世は国外逃亡。


239 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:27:17 ID:+jVGSa2B
WIKIより
>1240年春、バトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面と
ワラキア方面、カルパチア正面からトランシルヴァニア経由でハンガリー王国へ侵攻した。
まず西方では右翼のオルダの支軍がポーランド王国(ピャスト朝)に侵攻し、3月には
クラクフを占領。続いてバイダル率いる前衛軍が1241年4月にはワールシュタットの戦い
でポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を処刑した。シレジア、モラヴィア地方
もペタなる人物の侵攻を受けたようだが、これはバイダルのことと考えられている。
カダアン、ブリ率いる軍はカルパティア山間に居住していたサーサーン人(恐らくザクセン人)
を破り、ボチェクの軍は山脈のワラキア人と思われる集団を撃破している。
一方同年3月にはバトゥの本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ベーラ4世に
降伏勧告を行った。やがてモラヴィアからバイダル、カダアンおよびスブタイが合流し、
ペシュト市を陥落させている。ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世と対峙、
宿将スブタイおよびシバンの前衛部隊が夜半にベーラ4世の幕営を急襲して破り、
ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走した。続く1241年はカダアンらによる
トランシルバニア全域の征服や、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力
の掃討などが行われた。夏から秋にかけてはバトゥの本隊はドナウ川河畔に幕営したのち、
冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃した。



240 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:29:35 ID:+jVGSa2B
WIKIより
>しかし1241年12月21日にオゴデイが死去すると、ほどなくバトゥの本陣にもその訃報が届いた。
1242年3月に バトゥはオゴデイの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、
直ちにエステルゴムを陥落させ、 カダアンにベーラ4世の追撃を命じた。
モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノイシュタットまで迫ったようだが、
この地域の征服は諦めドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退したようである。
こうしてバトゥ指揮下の モンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。
しかし、バトゥの支配 したカルパチア山脈以東のルースィ諸国を中核とする東欧の領土は、
その後のジョチ・ウルスの基盤となったのである。


241 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:46:43 ID:AnwPFIW2
209は逃亡した様だな。
日本弱い派の例にもれず反論出来ないとすぐに逃亡したか。


242 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 07:55:46 ID:???
>>241
つーか、日本が勝ったのに弱い、ってのはハナからおかしい話w


252 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 09:58:58 ID:???
ただ「騎射の芸」については、最近の武士論なんかでは
頼朝は熱心に御家人に奨励したけれども、
時頼の時代にはかなり廃れていたと見る論者もおられるね

吾妻鏡のそれらしい箇所を引いてみたが、
時頼が嘆いている記述が何箇所か見られる
(それに引き換え相模太郎時宗は立派、と言う意図があるにせよ、
子供に負けてるようじゃ御家人のレベルはあまり高くなさそう)

255 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 10:29:40 ID:???
>>250
その結論が成り立つのは、日本が朝鮮なり大陸なりに逆侵攻して、そこで元軍を破ったような
状況があればこそだな。
現実には自軍に不利なアウェーでの戦闘で勝利していない以上単純に戦闘能力の優劣は比較できんよ。


256 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 10:31:41 ID:???
>>255
ヨーロッパは自軍に有利なホームでもモンゴル軍に散々だったが



260 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 11:17:44 ID:???
>>ヨーロッパは自軍に有利なホームでもモンゴル軍に散々だったが
ワールシュタットは戦後のドイツ騎士団の名簿から考えて予想よりずっと損害は少なかったんじゃ?
ボヘミア軍への攻撃を諦めた事から考えてモンゴル軍の被害も想像以上だったと言われているはず。
その状態でもモンゴル軍はバトゥが敗走するハンガリー軍の追撃を躊躇う程の損害を受けている。


262 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 11:26:51 ID:???
>>260
損害を受けたはずのモンゴル軍が、ワールシュタットの戦後も一年近くに渡って
東欧を荒らしまわっていたのは一体どういうことだ?


274 :210:2007/09/15(土) 12:07:39 ID:???

肝心な事実は白人様がモンゴルに叩き潰されモンゴルは鎌倉武士に叩き潰されたと言う事だけだ。


275 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 12:15:36 ID:???
>>274
ポルトガルの黒船を焼き討ちにした日本水軍を打ち破った亀甲船は世界最強艦隊でっか?w


276 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 12:20:57 ID:???
>>275
朝鮮水軍は漆川梁海戦で日本水軍に全滅されられてるじゃん。。。



278 :210:2007/09/15(土) 12:24:10 ID:???
とうとう尻尾を出したな、チョン。
亀甲船なんて確かな資料が全くなく、そのためチョンの妄想し放題。
実際の亀甲船は木造船の一種で衝角が張り出した手漕ぎの突撃艇似すぎないんだよ。



293 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 12:52:22 ID:???
なぜ元寇が日本史の教科書に数行しか書かれていないんだ!


294 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 12:54:09 ID:???
>>293
GHQと在日勢力の陰謀です。


295 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 13:00:17 ID:???
せめて1ページにでも元寇を書いて欲しかったね。
やっぱり、チョンの陰謀だな。
NHKの「そのとき歴史が動いた」で元寇があったが、
当時の朝鮮が元の勢力圏外になっていた(笑)

297 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 14:35:21 ID:???
>>294
チョンの陰謀はむしろ刀伊の来寇とか応永の外寇だろ
高校の教科書にすら一言しか書いてない


302 :名無し三等兵:2007/09/15(土) 23:13:25 ID:???
少なくとも最弱は万年奴隷の朝鮮で決定は桶?

モンゴル制圧から逃げる旧高麗軍の日本への救援を黙殺して見殺しにしてすまんのう。
その後、すっかり傀儡政権が高麗にできたわけだが、奴隷根性が身に付きすぎwww。

303 :名無し三等兵:2007/09/16(日) 06:02:10 ID:???
>>302
三別抄についての時系列がおかしい。
三別抄が日本に救援を要請してきた10年以上前の1260年には、既に高麗にモンゴルの
傀儡政権が誕生している。

あと、日本に救援を要請する半年前の1271年5月に三別抄はモンゴル軍に大敗し、本拠地の
珍島は陥落、兵船1000隻と言われた戦力もわずか80隻にまで弱体化している。
つまり、1271年9月に日本に使者を送ってきた時点で、三別抄は既に軍事的には何も期待
できない状態だったわけ。

それに三別抄って実は日本だけでなくモンゴルに対しても「自分たちの朝鮮南部の支配を
認めてくれたらモンゴルに直接臣従する」とか要請していたんだよ。
こんな信用できない連中を抱えてモンゴルと戦うくらいなら、日本単独で戦った方がマシ。


311 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 09:12:42 ID:???
バトゥの遠征以後は、ウクライナとモルダヴィア、ワラキアあたりまでがタタール人の直接支配下になり
ルーシ諸侯国とブルガリア帝国、ビザンツ帝国がタタールに貢納をおさめ
ポーランドとハンガリーはタタールの傘下にならずときどき戦っていた。

何がどう作用してそういう風に分かれたのかはわからない。



314 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 16:00:14 ID:lXQj5iPT
だけど高麗の忠烈王、モンゴルから従軍処女500人差し出せとの命令に
婚姻禁止令まで出して本当に処女500人献上した。
番犬ぶりで高麗に勝るものなし。


315 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 16:55:02 ID:???
元に媚びたのも忠烈だったな。正にバカチョンの鑑だ(笑)

317 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 17:32:49 ID:???
農耕に適した入植地として日本は期待されてたんだろうか?


318 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 17:40:49 ID:???
>>317
当時の中国人の認識だと元寇の目的は「日本の富」だったらしいぞ。
日本は南宋に莫大な黄金を輸出していたからね。
元自身も弘安の役の前に日本の商船と金と銅銭の取引をやっているし。


322 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 19:22:09 ID:lXQj5iPT
それにしても、三別抄の信用ならない嘘つきぶり、忠烈王の番犬ぶりを思うに明治日本の脱亜論は
全くもって正しかった。
清や李氏朝鮮と同盟して欧米列強に当たるなどという愚劣なことをしてたら日本は共倒れになっていただろう。
日本のように自らの力で近代化なんて出来る能力全くない馬鹿国ども。
そして戦後の日本が長く韓国、中国と国交がなかったが、復興し高度経済成長を遂げたことを思うと
元寇の教訓は今に生きている。アジアに深入りするな。



324 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 19:42:16 ID:???
しかし、元寇で沈没した船の残骸が未だに海底に眠っていたのには驚いた。



329 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 20:13:34 ID:lXQj5iPT

所詮朝鮮なんて根っからの番犬ってことだよ。
日本のすぐ隣の国にはこんな番犬ばかりが住んでいるということは日本人として自覚すべき。



334 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 21:24:53 ID:/+fTg5+H
>>158
お前は弓道くらい知ってるだろう。
矢の長さは 片腕の長さ+半身の長さ+α だろ。



339 :名無し三等兵:2007/09/17(月) 22:11:24 ID:???
元寇ってチョンの忠烈が元をそそのかして起こしたんだろ。


352 :名無し三等兵:2007/09/19(水) 16:53:44 ID:???
兵4万、兵船900艘を投入し、1万以上の戦死者を出しながら、戦果は海岸沿いの漁村を焼き討ちにしただけ・・・
倭寇なら30艘程度で達成可能な戦果だな。
353 :名無し三等兵:2007/09/19(水) 16:58:18 ID:???
倭寇は殆どがチョンとチャンですが?


354 :名無し三等兵:2007/09/19(水) 17:08:51 ID:???
それ後期倭寇


355 :名無し三等兵:2007/09/19(水) 17:30:38 ID:???
前期も日本人は精々三割くらいだろ。


356 :名無し三等兵:2007/09/19(水) 17:41:45 ID:???
>>355
前期はほとんどが日本人だよ


357 :名無し三等兵:2007/09/19(水) 18:03:06 ID:???
倭寇は元寇の報復措置。
よって倭寇は無罪
…と言うよりもっとチョンを減らせよ倭寇。



358 :名無し三等兵:2007/09/19(水) 18:16:09 ID:???
減らすどころか増やしてる。
後期は知らんが前期は倭寇が朝鮮・シナ人を連れてきて家持たせて嫁をあてがったりしてるから。



360 :名無し三等兵:2007/09/19(水) 21:44:52 ID:???
>>3
>論拠は当時世界の大部分を支配していたモンゴル軍を完膚無きまでに叩き潰したから。

うそこけ!元の国力見れば完膚無きまでとか叩き潰したとかいえねだろ
百歩譲って鎌倉武士は台風の中で追撃したのか?、そんなのありえないから


361 :名無し三等兵:2007/09/20(木) 03:00:28 ID:???
>>360
台風の後も10万以上の元軍がまだ日本付近に留まっていたんだよ。
でも、この元軍10余万は日本軍の追撃で全滅し、2~3万が捕虜となり、その他は皆殺しにされた。
「モンゴル軍を完膚無きまでに叩き潰した」という表現で何の問題もないよ。



362 :名無し三等兵:2007/09/20(木) 05:52:01 ID:guOX4WNz
なんて海戦?


363 :名無し三等兵:2007/09/20(木) 07:37:15 ID:???
なんて優しいんだ。倭寇は。


364 :名無し三等兵:2007/09/20(木) 08:28:20 ID:???
>>362
御厨の海上合戦


367 :名無し三等兵:2007/09/20(木) 15:53:36 ID:???
倭寇はまったりしてるぞw、中国人なんかお持ち帰りされてもなんか馴染んでるしw


368 :名無し三等兵:2007/09/20(木) 16:49:08 ID:???
倭寇三百騎が、朝鮮の軍隊を蹴散らして短期間だけど都市を占領したこともあったな


370 :名無し三等兵:2007/09/20(木) 20:22:18 ID:???
つまりバイキング最強ってことですね

372 :名無し三等兵:2007/09/20(木) 20:57:51 ID:???
バイキングみたいに川さかのぼって南京城門まで行ってるからな。
でもメインは絹を黄金で買う貿易だったみたいよ。
日本が4倍の値で金を売り絹を現地価格の1/20で買っていくという超不権衡貿易。
でも断ればたちまち倭寇になって暴れ出す。
仕方なく明は足利義満に頼んで貿易船は公認の勘合印章を持ってなきゃ駄目
ということにしたが勘合印章を司っていた大内氏が実は倭寇の大本締だったというオチ。



373 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 10:13:59 ID:???
ひでぇ。
何なんだよ、トンでもキャラ大行進やんか当時の日本って。ビックリハウスか?



374 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 11:15:54 ID:???

倭寇商法とでも名づけようw



375 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 12:44:58 ID:???
貨幣経済になって破産して山賊になった武士が捕まり放逐されたのが九州。
倭寇は日本中から集まった悪人をひとかどの武将が指揮するイカス軍団なのだ。
上海なんか倭寇が揚子江をさかのぼるのを防ぐために小さな漁村に防壁を
築いて要塞化したのが始まりなのですよ。


376 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 15:06:54 ID:???
倭寇が発展して大航海時代につなげれば白人にでかい顔されずにすんだものを・・・
まあ日本は自給自足が成り立ってたからなぁ



377 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 15:20:19 ID:???
倭寇って日本人は三割だけでしょ。
普通に考えて倭寇みたいな海賊行為は大陸の発想であって日本人がする事じゃない。


378 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 15:59:23 ID:???
>>377
それは後期倭寇の話。
前期倭寇はほとんどが日本人だよ。


380 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 18:04:36 ID:???
水軍衆に栄光あれ!


381 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 20:11:54 ID:???
>>378
白丁が倭寇を名乗って暴れてたのが実態だとか朝鮮の役人が認めてるけど


382 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 20:43:06 ID:???
だからそれは後期だっつーの。


383 :名無し三等兵:2007/09/21(金) 20:47:01 ID:???
「倭人不過一二而本国之民仮著倭服成党作乱」ってやつでしょ。
最初の倭寇から200年ぐらい経ってからの話だよ。
倭寇自体は400年近く続いてるから中期あたりか。



384 :名無し三等兵:2007/09/22(土) 15:01:58 ID:nvxYdpBY
なぜこんなにも通説と違うのか


385 :名無し三等兵:2007/09/23(日) 20:14:16 ID:???
>>384
GHQの意向


386 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 02:19:29 ID:???
実際、元寇だけじゃなく他にも数多くのトンデモ説が終戦後のどさくさに紛れて採用され、
批判がタブー視されたまま、不良債権化してるだろうな・・・



387 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 05:15:00 ID:???
全部GHQの陰謀です。


388 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 05:44:23 ID:???
いん‐ぼう【陰謀/隠謀】
1 ひそかにたくらむ悪事。また、そのたくらみ。「―を企てる」「―に加担する」

終戦後、公然と行なわれたGHQの歴史教育への介入を「陰謀」と呼ぶのは正確な言葉の
使い方ではないな




389 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 05:53:05 ID:???
じゃあ全部GHQの策謀です。


390 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 06:25:16 ID:???
現実に終戦後半世紀以上が経過しても、「戦後レジームからの脱却」なんて発言した途端
マスコミなどから袋叩きに遭うからな。
特に歴史問題ではね。
例えそれがどんなにデタラメでも、誰も訂正しようとしないのさ。

392 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 09:42:39 ID:???
>>終戦後、公然と行なわれたGHQの歴史教育への介入を「陰謀」と呼ぶのは正確な言葉の
>>使い方ではないな
皇室賛歌の為のトンデモ説が普通に教えられてたんだから介入するのは当たり前の話。
それとも日本人がずっと「日本は万世一系の天皇が中心の神の国だ」と言う認識を持ったままで良いと言いたいのか?
そもそも元寇関連の記述をGHQの支持によって変えたと言う証拠は何も無い。
39

3 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 10:25:02 ID:???
>>392
 では、この平家物語はGHQによる「教育の民主化」によってどうなったのでしょう
か。
 答えは、「全文が墨で塗られた」です。
 先の答えも同様です。高松城の明渡しの場面全てが隅で塗られました。
・・・
 なぜ、平家物語も高松城の明渡しも全て墨で塗りつぶされなければならなかったか。
答えは、「武士が軍人だから」です。
 その理念が正しいかどうかは別にして、連合国が日本に日本国憲法を押し付けたのは、
日本を武装解除し長期的に(できれば未来永劫)弱小国の地位によどめておくためです。
 教育改革も目的は同様です。
戦後教育に謳われた平等も平和も民主主義も素晴らしい理念ですが、
それらが日本を強国に育てるものであっては困るのです。
秀吉の全国統一によって平和がもたらせれた側面があろうと、
源平の合戦に平家独裁を打ち破る側面があろうと、
「軍人である武士」が主人公の物語はすべて学校教育にふさわしくない。
これが、墨を塗った側の発想でした。
 付言するなら、武士を単なる軍人と捉えるのは日本史に対する理解が浅薄な証拠です。
我が国の貴族と武士の関係は、西洋はもちろん、中国や韓国の文官と武官の関係ともまったく異なります。
武士は有事には軍人ですが平時は文官でもあります。さらには、
有事には軍人となるが平時には文官ですらない武士(いわゆる無役の状態です)もいます。
 でも、そんなことはお構いなしでした。
とにかく武士が登場する物語は、ことごとく墨を塗られ教科書から姿を消したのです。

「戦後教育で失われたもの」森口郎・著



394 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 10:58:49 ID:???
 ちなみに歴史タームとして「文永の役」が教科書に登場するのは、明治末年の第二期
『尋常小学日本歴史』からであった。一回目のモンゴルの襲来については、ことさらに歴
史名辞でよぶことはしていなかったようだ。
 さらにいえば、われわれの“常識”となっている文永・弘安両役がいずれも大風すなわ
ち神風との遭遇によるとの記述は、戦後の『くにのあゆみ』(第七期国定教科書)において
はじめて登場する。その意味で二度にわたるモンゴルの襲来とその撃退に、ともに大風が作
用したとの記述が教科書レベルで常識となったのは、戦後のことだった。
「神風」と文永の役


 それではその意味をどのような回路で理解したらよいのか。予想される回答としては、
明治末年の国定教科書での文永の役が、かりに大風とワンセットで表記されたとすれば、
そこに時代の息吹を感ずるはずだ。
 民族意識の高揚と神国観念の強調という場面である。
そのことが、弘安の役はおろか、 文永の役でもまた大風が吹きあれ、モンゴル軍の退散に寄与したのだ、と。
このことを介し、「神風」「神国」観の醸成に役立ったに相違ない、と。このように連想するだろう。
 だがしかし、実際はそうではない。
「文永の役」の登場と大風=台風が結びつく記述は、 『くにのあゆみ』以降の常識だった。
この最後の国定教科書では、戦前・戦中の反動的な色彩は消えており、
「神風」「神国」そして「神兵」の記述もない。
ないなかで「大風」が二度にわたり吹きあれ、それが勝利に結果したとの記述をどう解すべきか。

「神風の武士像 蒙古合戦の真実」関幸彦・著



397 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 14:17:04 ID:???
例えば戦前の昭和天皇の歴史教科書に書かれていた文永の役はこんな感じだった。

国史 昭和天皇の歴史教科書 口語訳
「元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫り
ました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。」

ちゃんと武士が自力で侵略を防いだことになってるじゃん。



399 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:02:51 ID:???
日本の歴史教科書は、欧米・欧州に比べてページ数が圧倒的に少ない。
もっとページ数を増やせよ。文科省!


400 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:08:02 ID:???
イギリスも日本同様に海の壁に守られているが、何度も大陸に征服されているぞ。
ローマ帝国に征服され、遠く北海を隔てたデンマークにも征服され、フランスの地方豪族に
過ぎないノルマンディーにまで征服されている。
大陸と交流を持ちながら独立を保った日本は、島国としては例外的な存在。


402 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:13:53 ID:???
向こうは泳いで渡れる海峡だもんw

プサンと博多の間泳いで見やがれ



403 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:16:14 ID:???
>>402
デンマークからイギリスまで泳ぐのは大変だよ


404 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:18:38 ID:???

ヨーロッパ人の方が泳ぎがうまかったんだな


405 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:40:36 ID:???
で、鎌倉日本が世界最強だったということで結論は良いんだな。皆の衆
モンゴルよりも強かったし、当然イスラムもヨーロッパも鎧袖一触だと。


406 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:46:24 ID:???
>鎌倉日本が世界最強

だから船舶による補給の限界とか一斉上陸(というか戦力投入)
の限界量、限界速度を考えろとあれほど



407 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:48:31 ID:???
補給は船舶使った方が有利だろ

408 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 22:53:15 ID:???


モンゴルの矢が射程200m、と書いた書籍を見たことがある
イングランド長弓が150mである事を考えるとちと疑わしいなw



415 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 23:34:34 ID:???
1回目、高麗人主体だったというのは嘘。
元軍の主体は2万5千の蒙漢軍で、高麗軍は8千。
日本側の文献にも元側の文献にも「元軍が戦って負けた」と明記してある。

2回目、朝鮮半島を出発した東路軍が6月上旬に博多に到着するも、日本軍によって撃退される。
6月末には江南軍も合流したが日本軍には勝てず、1ヶ月後の7月末に台風に遭遇。
その後の日本軍による掃討戦で元軍10万が全滅。



416 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 23:39:04 ID:???
現用の軍用船舶の大半は、60海里/hまでしか出ない
イルカは50km/h、普段でも30km/hが余裕(フェリーについてくるし)

イルカ飼い慣らしてイルカが魚食いながら戦場まで人乗せて送ってくれるなら最強だよなw
馬による移動と同じになる


417 :名無し三等兵:2007/09/24(月) 23:41:56 ID:???
>>408殿
三十三間堂の通し矢をお忘れか?
全長118mの長さをほぼ水平に射通さなければならないのが遠し矢競技。
和弓の射程距離は100m以上は余裕である。
後、射程距離は矢自体の重さも考慮しなければならない。重い矢を使えば、
威力は増すが、射程距離は落ちる。

世界最大と言って良いほどの大型弓(平均弓長240㎝)なんだから、
当時の世界では威力も相当な水準にあったと思うんだけど。
比較のために言うと、有名なイングランドのロングボウは定義上では120㎝以上の弓を
言います。大体が180㎝以下が多く、最大の物でも200㎝行かないでしょう。


423 :名無し三等兵:2007/09/27(木) 08:50:58 ID:???
>>409
東路軍は6月15日を過ぎた時点で、残り1ヶ月分の兵站しか持っていなかったから、
遅れて来た江南軍から補給を受けなければ、8月1日の台風遭遇まで日本近海に
留まることはできなかった。


425 :名無し三等兵:2007/09/28(金) 20:06:46 ID:???
応援部隊って言うか、江南軍って、中国の農民だったんでしょ?


426 :名無し三等兵:2007/09/28(金) 21:05:32 ID:5H/qvV6G
>>425
旧南宋兵を中心に作られた。


427 :亀レス:2007/09/28(金) 21:27:56 ID:???
>>32
君って阿呆?それともバカ?

>ベトナム 国連軍+韓国(敗)対 ベトナム(勝)
ベトナムのどこに国連軍が?
それに北ベトナム側にも北朝鮮軍が付いている罠。
防空部隊とか、パイロットとかそれなりにまとまった数が送り込まれている。


428 :名無し三等兵:2007/09/28(金) 23:49:52 ID:???
>>425
戦力として考えてなかったわけではないだろうけど、大量の農機具を装備してたのは事実みたい


429 :名無し三等兵:2007/09/29(土) 08:44:59 ID:???
>>428
江南軍は平戸に到着後すぐに野戦築城してるけど、そういう工兵作業にも鋤や鍬は使うんだよ。


430 :名無し三等兵:2007/09/29(土) 13:12:19 ID:ZzBwKnAh
しかし平戸島なんか上陸しても山ばっかでろくに大軍は展開できなさそうだよね
てゆうか城なんか本当につくったんか?


431 :名無し三等兵:2007/09/29(土) 14:52:32 ID:???
>>430
元史卷一百六十五 列傳第五十二 張禧
「至日本、禧即舍舟、築壘平湖島、約束戰艦、各相去五十歩止泊、以避風濤觸撃。」

壘 → るい【塁】
1 軍営の周囲に巡らした囲い。《ふつう深い溝を掘り、掘り出した土石を積み上げて造る》「高塁」
2 とりで。「孤塁」


434 :名無し三等兵:2007/09/30(日) 14:29:17 ID:???
単素材1メートル弱のイングランド弓が150いくなら合成弓で長さも210センチほどある和弓のほうが普通に飛ぶだろうな


435 :名無し三等兵:2007/09/30(日) 19:00:33 ID:???
日本の侍の手の骨格構造が変形化してたって話は聞いたことがないが、当たり前なので
記録にのこらなかったのか、それとも最大威力の弓より大分低威力なものを大半の武士が
常用してたのか。

436 :名無し三等兵:2007/09/30(日) 19:03:22 ID:???
斜面に生えて一方に圧力が掛かったアテ材を使うべきか


437 :名無し三等兵:2007/10/01(月) 07:41:45 ID:???
>>435
ロングボウと日本の弓とでは射法が違う。
日本の場合は蒙古式射法というモンゴル軍と共通の射法を用いていた。


438 :名無し三等兵:2007/10/01(月) 11:57:23 ID:???
日本の場合引く量も独特だな
ふつう諸外国は顎までしか引かんのに馬手を右肩近くまで引く
大体25センチぐらい引き量がおおいのか


440 :名無し三等兵:2007/10/01(月) 18:20:22 ID:f7Ws/C6h
ロングボウの射手は腕力で無理矢理引いていた。
何しろ、顔の前で矢をつがえるので、上腕二頭筋が頼り。
和弓が合理的なのは広背筋を使って引ける所。大型弓であることが幸いした。
腕に付いている筋肉よりも広背筋などの胴体に付いている大筋肉群の方がパワー
が出るし、安定している。
結果として、手の骨格構造が変形するなんて無茶なことは起こりません。


446 :名無し三等兵:2007/10/02(火) 08:44:58 ID:???
当初鎌倉武士は5千くらい
少なく見積もっても2万程度は居たであろう蒙古・高麗

この元連合軍に対して、防衛線を後退させながらも丸一日持ちこたえたのは、同時代
の他国と比べても驚異的に善戦していると思う。ポーランド・ドイツ騎士連合
は、蒙古軍より数で勝っていたのに数時間で壊滅的な負け方をしたのと比べれ
ば、段違いの奮戦振り。



447 :名無し三等兵:2007/10/02(火) 10:54:54 ID:???
リーグニッツ?
平野での野戦やったら鎌倉武士も偽装退却を追撃して包囲されて終わりぽいな


451 :名無し三等兵:2007/10/02(火) 15:25:52 ID:sFCpCUVr
>>447
>平野での野戦やったら

文永の役で野戦やったのは福岡平野


455 :名無し三等兵:2007/10/02(火) 20:18:39 ID:???
>>446
5千騎ってことは、総兵力2万くらい?


465 :名無し三等兵:2007/10/04(木) 02:36:45 ID:/yTZI0fs
朝鮮半島で急遽かき集めた、農民兵に武器もたせて鎌倉武士に対抗させたのが敗因
素人が何人かかってもプロレスラ~には勝てない。侍はプロの格闘家、朝鮮農民兵、遊牧民
が勝てるはずない。
日本刀に兜割られ、和弓は馬の尻を射抜いてさらに騎手まで射抜いたという記録がある。
どう考えても、朝鮮、蒙古、南宋人が勝てる見込みはない。
1回目、蒙古軍は昼の戦いで弓矢を使い果たし船へ退却、台風がきて全滅だった。


467 :名無し三等兵:2007/10/04(木) 10:45:17 ID:???
和弓は単純に引っ張るんじゃなくて自分の体をゆんでとめての間に割り込ませないと引けんよ
引いて引かずやね


468 :名無し三等兵:2007/10/04(木) 13:59:21 ID:???
弓の装備率自体も大きな原因じゃないか
源氏が平家に勝った理由の一つとして「従者も弓を射掛けた」という投射量を挙げることがある
この源氏方式が全国規模になっていたのなら、当時の西国武士も従者にまで弓を持たせていたんじゃ?


471 :名無し三等兵:2007/10/05(金) 02:13:46 ID:CFtwoKYe
おまいら、ぐだぐだ議論する必要などない。現代に当てはめれば分かりやすい。
韓国製の船は粗製濫造だった。大東亜戦争で朝鮮兵はくその役にも立たなかった。
国民党軍は連戦連敗だった。共産軍は逃げまくって戦おうとはしなかった。
800年たっても民族性は変わらない。
モンゴルに支配された大陸の国々は本当に弱かった。
英仏海峡わたってアングロサクソンとやり合ったらモンゴル勝てたかどうか興味あるところだが。


472 :名無し三等兵:2007/10/05(金) 11:05:21 ID:???
この当時のアングロサクソンは大した事ない。
プランタジネット朝とかも元々は大陸系の王朝だろ。

473 :名無し三等兵:2007/10/05(金) 12:05:43 ID:???
ローマの投げ槍なんかは、盾を封じるためというのもあったぽいけどな


474 :名無し三等兵:2007/10/05(金) 12:35:31 ID:???
>>473
ピラ。
でも封じるのは片手に持って戦うようなシールドだが。

475 :名無し三等兵:2007/10/05(金) 13:06:01 ID:???
日本の盾は、手持ちじゃなくて陣地において並べるようなもの
弓が先か盾が先かはわからんけども、対抗上そうなったんだろうな


476 :名無し三等兵:2007/10/05(金) 13:46:24 ID:???
日本の盾って状況に応じていろんな使い方をされてる。
置いて使うのはあくまでその一例。
最前列の兵士が盾を持って並び、シールドウォールを形成したまま前進したり、
後退したりすることもあった。


482 :名無し三等兵:2007/10/08(月) 20:44:00 ID:rWqh/9G2
弓騎兵と刀槍(鎌倉時代には槍は普及してないが)騎兵と刀槍歩兵の異なる兵科
を一通りこなせる鎌倉武士は、騎兵は騎兵、歩兵は歩兵、弓兵は弓兵と専門分化
していた同時代の他国の兵士より練度は高い。
騎馬部者だろうと歩射の徒武者だって太刀や長刀で接近戦を戦える鎌倉武士は
陣地に突撃されても、簡単には総崩れにはならない。
自分の兵科しか出来ずに、槍兵に射撃前後を援護してもらう様な大陸の弓兵や弩兵に比べたら、
接近されたら全員が白兵戦に参加出来る鎌倉武士は効率的。



486 :名無し三等兵:2007/10/11(木) 18:12:18 ID:???
地の利ねぇまあそれもあるねぇ

ま結論から言えばモンゴルは海にでなければ日本を知らずに最強でいられたのにねということだな



493 :名無し三等兵:2007/10/11(木) 23:17:58 ID:???
で、鎌倉武士団が逃げたとか負けたとか明記してある資料はどれかね?


494 :名無し三等兵:2007/10/11(木) 23:36:38 ID:???
>>493
「てつはう」とか書いてあるアレじゃね?


497 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 00:09:52 ID:???
「鎌倉武士は四倍のモンゴル軍に勝利しました。勝因は鎌倉武士が色々と凄かったからです」なんて説明で納得してウリナラマンセーするなんてどれだけのアホなんだ?

498 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 00:16:44 ID:???
>>497
実際、四倍のモンゴル軍に対して大宰府へ指1本触れさせないまま勝利したんだから
鎌倉武士は凄いだろ。
お前は、一体どこが納得できないんだ?



499 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 00:21:09 ID:???
>>498
だからさ、お前は四倍の軍勢に勝利した要因が「鎌倉武士が盾を砕く弓を持ってたりして凄いからです」なんて小学生レベルの説明で納得するアホなのか?
双方はどんな編成だ?地形は?配置は?戦闘の経過は?戦術は?双方の士気は?死傷者の数は?
これらの事を全く考慮せずに「4倍のモンゴル軍を破ったから鎌倉武士は世界最強」なんて池沼だとし言えない。
亀甲船をマンセーしてホルホルする韓国人と同じレベル。


500 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 00:37:43 ID:???
>>499
双方はどんな編成だ?
元軍は蒙漢軍2万5千と高麗軍8千で、日本軍は九州の御家人が5千。

地形は?
騎兵運用に適した福岡平野。

配置は?
元軍は博多湾西方の松原付近に上陸し、日本軍は博多付近に集結。

戦闘の経過は?
東進してきた元軍が赤坂で菊池勢に蹴散らされて敗走。

双方の士気は?
双方ともやる気十分。

死傷者の数は?
元側の死者・行方不明者が1万3千5百余人。日本側の損害は対馬・壱岐・松浦党に集中。


507 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 10:59:19 ID:???
海は数個師団に匹敵する
まして荒い日本海は、急造の元・高麗水軍にはきつかったことだろう
兵站が無ければ勝てないのは古今東西同じ


508 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 12:15:42 ID:???
>>507
元・高麗水軍900艘は兵站3ヶ月分を搭載できるんだが。
船の輸送力を利用できる分、兵站面では陸上侵攻より有利なんだよ。


509 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 12:22:14 ID:???
>>508
どこが?
一日戦っただけで矢が尽きかけている程度なんだぞ


510 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 13:18:59 ID:???
>>509
準備に何年もかけた遠征で、一日戦っただけで矢が尽きかけるはずがない。
もし本当矢が尽きたとすれば、それは博多の戦闘の前に対馬の80騎や壱岐の100騎程度
武士との戦闘で、元軍3万3000は大苦戦していたということだ。


511 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 13:27:58 ID:???
>>510
それこそ思い込みの産物だろうに
何年もかけたのは造船が必要だったからで、船腹以上の物資はどうやっても運べない
だいたい前哨戦でそんなに苦戦してたのなら、侵攻スピード自体がもっと落ちてただろ


512 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 13:33:33 ID:???
>>511
実際、侵攻スピードは対馬や壱岐の戦闘で大幅に落ちてる。
対馬で10日近く、壱岐でも丸2日を要しているから。


513 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 13:48:26 ID:???
そりゃ戦闘のせいじゃないだろう
万余の軍勢が、しかも船で動くのなら行動のロスが出るんだから当然
光栄のゲームで語ってないか?チンギスⅣとかw



514 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 14:55:54 ID:???
元軍はその後、菊池勢100余騎や白石勢100余騎にも蹴散らされているし、
弘安の役 でも河野通有の兵船2艘の襲撃で大損害を受けたりしている。
武士と元軍の戦闘力の違いを考えれば、対馬や壱岐の戦闘が大苦戦だったことは
十分考えられる。
元軍は弘安の役の際、同じ900艘の船団で3ヶ月以上戦っており、輸送能力には
かなりの余裕があったわけだし。


515 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 15:47:28 ID:???
一日で矢を半分も消耗したって話を鵜呑みにするならそれは蒙古軍の想定する以上に激しい戦闘が展開された、か
それとも蒙古軍が所要の矢の量すら碌に算出出来ない馬鹿揃いだった、という解釈のどっちかになると思うんだが。


517 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 16:03:18 ID:???
>>船の輸送力を利用できる分、兵站面では陸上侵攻より有利なんだよ。
お前バカだろ、本物の。

518 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 17:38:01 ID:???
>>513
確かに戦闘のせいじゃないね
単に対馬領民を虐殺しただけだもんね

もしかしてこんな無駄なことしてなければもう少し矢数も保ったかもね


519 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 20:51:22 ID:???
>>517
高麗の大型船を1艘200㌧として計算すると、元艦隊300艘の輸送量は合計6万㌧。
同じ量を陸上で輸送する場合、馬1匹の輸送量を100㌔で計算すると60万匹が必要な計算になる。


520 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 21:31:03 ID:???
昔とはいえ、いくら何でも、必要な兵站ぐらいは計算して遠征するだろう。

つうか、その計算が出来ない軍=弱すぎる軍っていっても問題ないような。



522 :名無し三等兵:2007/10/12(金) 22:05:05 ID:???
>>519
兵站と言う物をその程度の認識でしか見られないのか。
海上輸送と言うのがどれだけ大変な物なのかちょっと頭を使えば解るだろうに。
そもそも一隻につき200トンも物資を運べるかよ。
そしてなんで陸路の輸送で馬しか使わないんだ?
と言うか普通に考えて「船の輸送力を利用できる分、
兵站面では陸上侵攻より有利」と言う文章を書いた時におかしさを感じなかったのか?
戦記物を読んでれば海上輸送の困難さなんて常識だろう。


525 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 02:27:51 ID:???
>>522
戦記物を基準にされてもな・・・

それに、1艘につき200㌧って、大型船なら普通の輸送量だろ。
一応、数字の根拠としては、1268年にフビライが高麗に建造を命じた戦艦1000艘が
米3000~4000石を積載可能な大きさということだったので、それを基準に1石60㌔で計算したんだけど。
戦国時代の安宅船とかもその位だし。
それくらい船舶の輸送量というのは、陸運を凌駕しているものなの。


526 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 02:41:06 ID:L0rZd5sC
>>525
高麗の用意した船は急増しただけでなく、漢江や錦江といった河川運搬用の船も徴用したらしい。
内陸河川用の大型船は基本的に輸送船だから、積載力はそれなりにあったと思う。
第一、平底だから積載能力は高い。但し耐波性は悪いが。


527 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 03:09:20 ID:???
モンゴル軍は斥候の軽騎兵が偽装撤退(負けたフリ)で勝ちにはやる
敵を自軍包囲網に誘い込み撃破、という戦法をしばしば使いました。
ハンガリーの場合は偽装撤退にノッてこなかったんでこちらから
叩きにいったんじゃないかな?

元軍は数万という単位での渡洋侵攻作戦には経験と準備が不足していたようです。
その根拠となるのは
(1)博多湾を2度も上陸拠点として選んだこと
一度目のときはやすやすと上陸に成功しますが二度目に来たときは
博多湾沿岸はかなり要塞化されてて着上陸が困難になってました
ノルマンディーでロンメルがいってた水際防御てやつです。
(2)兵力と士気の問題
弘安の役では元軍は二ヶ所から艦隊を送りました
朝鮮半島から出撃し、高麗と漢人を基幹とする900隻4万。
そして中国は江南(上海付近)から出撃した、旧南宋の将兵を基幹とする3500隻10万。
江南から出撃した奴らは投降兵が中心なのと対馬海峡じゃなく広い黄海を
時間かけて渡ってきたのとで士気とコンディションがガタガタだったようです。

んでこの10万、日本側の艦隊の泊地(平戸)に第一波~殿(しんがり)までが全て
たどりつくのに実に3週間かかってます。
(先にやってきた朝鮮発の4万は一時志賀島に橋頭堡を築くも激しい反撃のため
艦隊から後続の物資,人員を揚陸することができず若干の陸兵を置き去りにし
志賀島→壱岐→平戸と撤退。江南からやってくる10万との合流を待っていた)
 
こんな大軍で来るから時間かかるのはまあしょうがないんですが
陸兵は全戦力集結~総攻撃の発起までは日本の小艦艇の絶え間ない襲撃や
不衛生による疫病発生におびえながら狭っ苦しい船の中にカンズメなわけで

ついでに、第一次の文永の役は元軍がすげえ優勢に戦いを進めてたのにも関わらず
突然退却してしまったことから第二次侵攻に向けた威力偵察ではないかと
考えてます。なんか速攻で矢が尽きてますし。


528 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 03:41:03 ID:???
>ついでに、第一次の文永の役は元軍がすげえ優勢に戦いを進めてたのにも関わらず
突然退却してしまったことから第二次侵攻に向けた威力偵察ではないかと
考えてます。


この部分に関しては若干誤解があるようだがほかはおおむねそうだろうな
優勢っていっても対馬での虐殺と博多湾から上陸したあとの博多焼き討ちぐらいだと思うけど 高麗軍も曲がりなりにも兵士なんだから圧倒的寡兵と平民相手にホルホルできても当然じゃないかな
武士に当たったとたん総崩れだし
いくらでも増援が来る鎌倉武士に対して元にしてみれば勝利条件は一気に大宰府落すしかないのだから
威力偵察というよりは初めから電撃戦の計画でそれが失敗したから帰ったんでしょう
「大宰府さえ占領すればおとなしくなるだろ」ていう甘い考えだったとしか考えられない
現に二回目の弘安のときも規模以外基本的にはおなじだしな。
元には大宰府しか見えてない。
高麗史でも
朝鮮「背水の陣で必死にたたかえばまだ何とかなります」
元「あほかこっちはもうへとへとだぞ逆に武士はどんどん増えるしもう無理。撤退撤退」


あと江南軍の士気に関しては低いことはないはず
直前の大将交代などでコンディションの不備はあるだろうがね
530 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 04:15:50 ID:???
>>528
第一次遠征に関しちゃ
元軍側にゃーあんま「負けた」という意識はなかったようですけどね
日本側の主力が当初の拠点である博多を放棄して太宰府に撤退したり、
元軍指揮官のヒンドゥが帰還後、ただちに第二次遠征の準備を命じられてます。
(おとがめや配置転換などが一切なされていない)


531 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 04:58:29 ID:???
第一次遠征については「元史」にも「高麗史」にも戦って負けたと書いてあるが

『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」

『高麗史』八十七巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」

534 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 07:12:12 ID:???
フビライにしても第一次の進攻は使者を皆殺しにした日本への
「懲罰遠征」で、征服までは考えていなかったんじゃないでしょか?

第一回と第二回の進攻で元軍の指揮官の人事が
ほぼそのまま引き継がれている点、
戦闘の経過だけを見る限りでは優勢な元軍が
幕府群の動きと関係なく突如兵を引いたよーにしか見えない、という点
からそー考えたんですが・・・


535 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 08:12:19 ID:???
>>530
博多は拠点じゃないよ


536 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 08:24:16 ID:???
>>534

>フビライにしても第一次の進攻は使者を皆殺しにした日本への


誤解してるが文永の前に来た使者は殺してないよ
殺したのは弘安の戦前に来た使者
なのでその仮説はおかしい



人事に関しては単に人材不足かもしれんよ現に
金方慶なんかは高麗指揮官なのに市中引き回しのうえ公開鞭打ちだぜ
死罪にはならなかったものの一族は奴隷資財没収


537 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 08:25:41 ID:???
手もとの本じゃ
「夕刻頃博多を放棄し主抵抗線を太宰府まで後退」
とあったもんだから博多が拠点だと書いたんだけど。



538 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 08:36:56 ID:???
>>536
あー、確かに
「国書を黙殺した」とは書いてるけど
「使者を殺した」とは書いてないなー
軽率な物言いだった・・・

539 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 08:54:56 ID:???
>戦闘の経過だけを見る限りでは優勢な元軍が
優勢なのは対馬での一週間と壱岐などの小島での虐殺だけだけどな
対馬の地頭の宗助国なんかはたった80騎(もちろん全員討死したけど)で戦ってるし元軍が勝てて当然

博多に上陸後元軍(金ひきいる高麗軍)が勝てたのは松浦党にだけでその後ろの菊池氏に赤坂で阻まれて撤退

別ルートで博多を目指す劉復享も進軍を開始するが少弐景資率いる武士に狙撃され重傷、撤退


やがて日没になったので日本軍も水城へ引き上げた
で忽敦はとにかく忠烈王に言い訳がいるので
戦果のかわりに博多に火を放ち土産用の子供を200人拉致、そのまま夜陰に乗じて博多湾を退却
逃げ帰る

542 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 09:09:30 ID:???
>>539
>少弐景資率いる武士に狙撃され重傷
やはり日本の弓は・・・

544 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 09:13:41 ID:???
結果から経緯を推定した方が間違い難いと思うが、
上陸軍がせっかく手に入れた橋頭堡を捨てるのは、よっぽどの敗戦で無いと
理屈に合わんと思うんだが、防御側が戦闘で優勢でも、戦略的な理由で
一時撤退するのは、良くある話だし。



545 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 09:49:49 ID:???
>>544
この戦いを「戦術的にも日本の勝利」だとすると
後に成された海岸防衛線の構築や中国,九州地方での
北条家の守護再配置による指揮統制能力強化、などの
数々の施策への説明がしにくくなります。

海岸線にわざわざ石垣を作らせたのは
「元軍を内陸に侵入させたのはまずかった」という現場及び
指揮レベルでの認識があったからこそで、
内陸の正面切っての戦闘で元軍を撃破できる自信があるのなら
わざわざこんなもん作らせたりせず早期警戒網くらいで留めるんじゃなでしょか?


546 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 10:20:19 ID:???
>>541
夜になって視界が利かないから水城へ


547 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 10:28:44 ID:???
>>545
おいおい

「たとえ勝てても次はもっと少ない被害で勝ちたい」と思うのが普通
俺が当時の北条でも普通に防衛を強化するよ


結果的に勝ったけど考えても見ろよ
文永の役ですら単純計算で5倍の元軍だったんだぞ
「次の戦では増量の可能性も大いにある」とよめば
(実際南宋の僧侶とか亡命者などから弘安のときは元軍の規模も出航時期も
北条に筒抜けだったから) 対策採るのは当たり前


>「元軍を内陸に侵入させたのはまずかった」 略奪はもうカンベンって感じだったんだろう。
もちろん容易に白兵戦に持ち込める海戦をより望んだってのも大きな理由としてあるだろうがね


548 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 10:49:36 ID:gu7lp2yb
勝ったらからって防備を怠るのは下策中の下策。
まともなトップならそういうことはしない。
襲撃を受けたんなら、勝敗の帰趨に関わらず防護策が採られて当然。


>>544
一旦築いた橋頭堡を放棄しちゃうとまた最初からやり直しだし、揚陸作戦において、
陸からまた船に戻っちゃうというのは、確かに腑に落ちない点があるね。
あまり聞いたことがない事例ではある。
ところで文永の役での元側の損害はいかほど?敗北したんなら損害は大きいはず。この時の
風雨はそれほど強くはなかったはずだし。

549 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 10:54:36 ID:???
トータルで一万三千五百人(元軍調べ)

550 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 11:03:00 ID:???
>>541
武士だって寝たりご飯食べたりしたいじゃん
兵糧の備蓄は水城なんだからそこに帰っただけだとおもうよ



551 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 11:17:15 ID:???
>>545
個人的にはこの戦いは
「元軍は戦術的には勝利したが、将来的には(敵増援や矢の欠乏により)敗北は


>>528で言ってた威力偵察説を引っ込めたってこと?
それならあとはそんなにこっちから反論はないよ
戦術的な勝利云々はどこまで視点を引くかで変わるからな
「大宰府どころか揚陸すら失敗したが初日の先鋒の武士を少々と領民をたくさん虐殺した」を勝利と見るか敗北と見るか
「背水の陣でもしなければもう戦えない」という指揮官の言葉を勇ましいと取るか追い詰められて必死だなととるか


なんてのをあまりやりあっても意味がないしな


555 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 14:11:54 ID:???
鎌倉武士に「元軍に野戦で勝てる」という認識があったのは間違いないよ。
だって、文永の役の直後に「異国征伐」とか言って朝鮮半島に攻め込む準備を
開始してるんだから。

それに、野戦で勝てないから防塁で防衛する戦術を選んだというわりには、
弘安の役で防塁での戦闘にこだわっていない。
志賀島に元軍が上陸すれば志賀島に攻め込むし、壱岐や鷹島に後退すればそれを
追撃する。
どこで戦っても勝てると認識しているような戦い方。

防塁は、文永の役で元軍が女子供などを無差別に攻撃したため、そういう非戦闘員と
元軍との接触を防ぐ目的で建設したんじゃないのか。


556 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 14:39:37 ID:???
>弘安の役で防塁での戦闘にこだわっていない。
>志賀島に元軍が上陸すれば志賀島に攻め込むし、壱岐や鷹島に後退すればそれを
>追撃する。
これは防塁が「防塁に依った防御戦闘」に限らず、例えば上陸地点の極限、
防御側が不利になるような地形での戦闘の防止、言い換えるとイニシアチブを
なるべき相手に握らせないことを目的にしてるってことじゃないかな。

「どこで戦っても勝てると認識」とまで言ってしまうとちょっと言い過ぎじゃないかと。

イニシアチブを握り、十分な兵力があれば野戦でも勝てる、くらいでは。

561 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 15:11:55 ID:Moj45QcX
>>555
>だって、文永の役の直後に「異国征伐」とか言って朝鮮半島に攻め込む準備を
>開始してるんだから。

初耳だ。。。詳しく教えて

562 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 15:45:41 ID:???
>>561
「異国征伐」ってのは、文永の役の直後にたてられた日本の方から元に攻め込もう
っていう計画。
作戦の予定次期は文永の役から半年もたっていない1275年3月に設定されていた。
北条時宗はそのために動員可能な武士の数を各地から報告させたり、安芸一国で
100艘を超える船をチャーターしたり、いろいろとやってる。
一応名目上の指揮官は金沢実政だったんだけど、まだ17歳だったので、実際の指揮は
その親の実時が執ることになっていた。
直前に実時が病気になり、その後死んでしまったんで中止になったけど。


563 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 16:29:33 ID:???
弘安の役終結時点で宇都宮率いる関東勢、公称十万余はまだ東海道を抜けてなかった訳だが、
実際の規模はどんなもんだったんだろう?


566 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 16:55:33 ID:???
日本最強厨は「鎌倉武士は元軍より優れていたから勝った」と喚くがじゃあ何がどう優れていたかについては何も言わない。
言っても「盾を砕く凄い矢があった」だの「日本刀が凄かった」だの幼稚園児なみのレベル。


567 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 17:41:05 ID:VY36eaJF
>>566

鎌倉時代の日本は世界でも大国といって良かった。
鎌倉幕府は承久の乱で公称19万の兵力を動因。
まあ実数はそこまではいかないが10万以上であることは確かであろう。
源平合戦の時代、関東の頼朝、木曽義仲、奥州藤原氏、平家とヨーロッパの国々なんかより
大軍を動因できる地域政権が存在していた。
モンゴルは確かに超超大国だったが、時代はまだ国民の軍隊などを作れるような時代じゃない。
ユーラシアの大半を支配したといっても全土から統一した軍を作れるわけもなし、
弘安の役の時の14万はいくらモンゴルでも海を越えての艦隊となると精一杯だったろう。

明の時代、永楽帝の宦官鄭和がインド洋まで繰り出した遠征では5万。
これでも東南アジアやインド洋、更に東アフリカの国まで威圧し結構、明に朝貢させている。
セイロンでは王が反抗したので戦争になったがあっけなく鎮圧し王を捕らえて処刑している。

しかし当時の日本はセイロン程度の国ではなかったということ。
鎌倉時代は米の二期作も全国に普及したが中国ではようやく南方で始まったばかり。
大国であり先進国でもあり国内が内部分裂もしなかった以上、そう簡単に征服などされない。
568 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 17:45:58 ID:???
>>565
マーチン・ファン・クレフェルト著『補給戦 何が勝敗を決定するのか』中央公論社

「逆説的に言えば、補給物資をうまく調達する司令官になればなるほど水路に依存するようになる
ということであった。その原因は、船による運搬能力が荷馬車のそれに比べ大きかったこと、
前者だと自分自身のための補給品がさらに必要になることがないということの両方のためだった。
たとえば十七世紀の軍事技術者として一流だった人の計算によれば、100ラスト(1ラストは約2トン)
の小麦粉と300ラストの飼料を詰め込むのにたった9隻の船で足りたが、陸上だと100ラストの小麦粉
を運ぶだけで600台もの荷馬車が必要だとしている。」


569 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 17:51:26 ID:???
>>567
>鎌倉時代は米の二期作も全国に普及したが中国ではようやく南方で始まったばかり

日本で始まったのは、「二毛作」の方だ
冬に麦を植える

570 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 18:07:45 ID:???
>>567
そういえばセイロンって元寇とほぼ同時期にマレーシアからの海を越えた侵略を受けて、
島の一部を征服されてるんだよな。


571 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 18:10:19 ID:VY36eaJF
>>569
そう二毛作。


572 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 18:14:47 ID:???
水田では豊富な水が毎シーズンごとに土を洗い流し
その後乾くから
連作障害の概念が、日本では定着しにくかった

ヨーロッパでは、後に主食になったジャガイモが連作に非常に弱かったため
間にどの作物を植えるかで工夫が凝らされ
ついに4圃式農業に至る

イモは土中に栄養のある物体がモロに出来るからすぐに
線虫病などが発生してしまう



573 :名無し三等兵:2007/10/13(土) 23:17:10 ID:???
>>566
和弓や日本刀が優れた性能を持っていたことは明かだろう。
それを言うことのどこが幼稚園レベルなんだ。
確かに、戦争における1つのファクターでしかないことは明かだけど。

英仏戦争におけるクレッシーの戦いについて、ロングボウの性能を語ったりしたら幼稚園レベルになるのか。
後のポルトガルやスペインの海上進出について、銃火器の威力を語ったら幼稚園レベルか。
兵装も軍事力を構成する要素の一つだ。



579 :某研究者:2007/10/14(日) 01:18:41 ID:iSUSkbgz

http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/index.html
http://learn.bowdoin.edu/heijiscroll/viewer.html

582 :某研究者:2007/10/14(日) 01:46:02 ID:iSUSkbgz
http://www.mokuzai-tonya.jp/05bunen/zuisou/2007/03nihontou38.html
>沢潟威残欠鎧(重要文化財)愛媛県・大山祇神社所蔵。

http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kenhaku/tenji/160511/index.html
>黒韋威大鎧
> (県指定重文)

595 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 06:59:26 ID:???
>>568
それは永続的な補給の事であって上陸作戦の事ではない。

>>573
誰もそんな事は言っていない。
「日本刀は兜ごと切り裂いた」だの「ハリネズミになっても戦った」だのが幼稚園児レベルだといってる。
金神頭とやらにしても具体的な事は何一つ言わない、いや言えない。



596 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 07:59:54 ID:???

文永の役の元・高麗連合軍の人数が約3万人という理由はわかっている。
大宰府攻略のための人数だよ。
某半島の人がフビライに、「上陸して大宰府に侵攻するには2~3万が必要」と
進言したから、その通りの兵力を投入したの。

それから史料では、はっきりと撤退→暴風に遭遇の順番。
暴風に遭遇したから撤退したのではなく、鎌倉武士との戦いで負けて撤退したから
暴風に遭遇したんだよ。


598 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 09:01:29 ID:???
>>595
>それは永続的な補給の事であって上陸作戦の事ではない。

補給の事を議論してるのに・・・

601 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 11:28:40 ID:QzEz0s0l
>>595
日本の大鎧って矢合戦で身体を防御することが目的で作られたものです。
別に日本国内の合戦だって矢を受けながらも鎧を通さずに戦った例など史書にはいくらでもある。
南北朝時代の史書にだって護良親王がずいぶんと矢を受けている記述がある。
あと和弓についていえば蒙古襲来絵詞には盾を貫かれた矢を受けて死んでいる蒙古兵も描かれているよ。
世界史的に史料として価値が高いといわれている蒙古襲来絵詞にね。


603 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 11:50:04 ID:???
>>601
単純に日本の武器、装備を持ち上げまくってるのが気に入らないんだ。
刀剣や鎧を見る限りじゃあ封建制の少数精鋭型の軍隊の装備としては
優秀かもしれんけど

大兵力の集団戦法に特化し、装備もそれに準じたものである元軍
(日本への遠征軍は漢民族と朝鮮族が多い上に歩兵が主力なんで
騎兵が主力だったオリジナルのモンゴル軍ともまた違う個性を持っている)
とは単純に比較すべきではないと思うんだ。
具体的にいうと装備の生産性とか扱いやすさとか,集団戦に向いた武器なのか、
それとも個人戦に向いた武器なのか、という特性の違いね。

単純に「優れてる」「劣ってる」て視点からだけじゃ
見えてこない要素もあると思うよ


605 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 13:38:43 ID:???
>>603
感覚じゃなくてもっと資料とか出したほうが説得力あると思うよ


606 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 13:51:25 ID:e2TMC9jO
>>595
金神頭って本当にありますよ。
何のことはない、ただの鉄球を矢の先端に取付けたものです。
実戦用の日本の矢は主に機能別に4種類に別れていました。


射通す(征矢:小さいが鋭い)、
射切る(狩又など:やじりがすごく大きい)、
射砕く(金神頭がそうです)
火矢。


金神頭は、全く刺さりはしないが、やじりとしては凄く重いので、物体を砕くのに適してます。
実際に置盾の破壊などに用いられてきました。
貫通力よりもストッピングパワーということで、現代におけるスラッグ弾みたいな発想でしょうかね。



607 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 15:36:12 ID:???
>>603
学校とかで「日本は集団戦法に苦戦した」とか散々刷り込まれてきたから仕方ないと
思うけど、そんなの大嘘だから。
史料を見れば実態は全く逆。
元軍が日本軍の集団戦法に圧倒された。
『元史』だって「官軍整わず」と元軍側の軍組織の乱れをを、文永の役の敗因の一番に
挙げている。


608 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 18:01:18 ID:???
蒙古襲来絵詞について
http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/6727469.html



609 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 18:08:27 ID:QzEz0s0l
>>603

>刀剣や鎧を見る限りじゃあ封建制の少数精鋭型の軍隊の装備としては
優秀かもしれんけど


日本の鎌倉武士が少数精鋭で一騎打ちばかりやってたなんて先入観をまず捨てないことには。
源平合戦や奥州戦争では万単位の軍隊が動因されてんだから。
奥州藤原氏は配下に10万の兵がいたというけど、頼朝に攻められたとき3万程度しか集まらなかった。
とはいえそれは泰衡が義経殺せば頼朝は許してくれると甘く考えていて頼朝が関東を出発したと聞いて慌てて奥州全土の豪族達に至急集まるように使者を飛ばしたけど
既に時遅し。
それで兄の藤原国衡に取り合えず2万の軍隊を渡して阿津賀志山で迎え撃った。
今にも残る阿津賀志山の二重堀跡は全長3キロにも及ぶからやはり2万くらいはいたであろう。
鎌倉武士軍が総力を挙げて攻めるが中々陥落しない。
そこで畠山重忠は堀に大量の大木やら岩を投げ込んで埋めて突撃するという戦術で奥州軍に大勝した。
攻める鎌倉軍は藤原国衡の2万を圧倒的に上回る兵力だったからこんなことも出来た。

日本では既に万をはるか超える軍による物量戦術なんかもノウハウとしてあった。
鎌倉武士=少数精鋭の戦なんて単純なものではない。



613 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 20:58:25 ID:cluUwUAJ
そういや元寇資料館とかのモンゴル甲冑ってあれ、明、清代のものじゃないのかね。
元代のものも残ってるの?

615 :名無し三等兵:2007/10/14(日) 22:03:47 ID:???
そんだけズタボロだったんじゃね?

625 :名無し三等兵:2007/10/15(月) 02:09:52 ID:???
>鎌倉武士=少数精鋭の戦なんて単純なものではない。

十万か・・・
そこまでいくとイメージ変わるなー
稲作だと面積単位の収穫量が小麦の倍くらいあった、て話聞いたんだけど
それが動員数の多さに繋がってるのかな


627 :名無し三等兵:2007/10/15(月) 17:15:02 ID:???
>>625
数は誇張されてるかもしれないから鵜呑みには出来ないけどな。
太平記なんて50万100万当たり前の世界だぜ


628 :名無し三等兵:2007/10/15(月) 17:35:04 ID:???
>>627
軍記物語の兵数はかなり誇張されている。
でも、それとその他の文献に書かれた兵数が信用できるかということは別問題だから。
信頼性が高いとされている史料でも数万の軍勢は登場するよ。


629 :名無し三等兵:2007/10/15(月) 18:52:53 ID:???
>>628
しかし、戦闘員と後方支援要員だとかの比率まで厳密に推定できてるのか?
15世紀の欧州の傭兵軍なんか婦女子や商人なんかがぞろぞろついて回ってたわけだし。


630 :名無し三等兵:2007/10/15(月) 19:53:28 ID:???
たとえば天下第一となった織田にも商人やらが付いて回ったが
数に足されていたとは思わない。


631 :名無し三等兵:2007/10/15(月) 23:19:19 ID:???
博多防衛:北条実政 兵力四万
山陰防衛:北条宗盛 兵力二万五千
近畿防衛:宇都宮貞綱 兵力六万

兵力量の実数が正しいかどうかは措くとして、
それにしても実政軍の後詰たるべき宗盛軍の兵力が過小なのはなんでだろ。
近畿に大軍置いてても、橋頭堡の建設を許したら急場の役には立たないだろうに。

632 :名無し三等兵:2007/10/16(火) 08:28:48 ID:uAOB4XOy
>>631
鎌倉幕府は博多で迎え撃つよう石塁などを築いたがもし博多にこないで山陰、
あるいは北陸越前あたりから攻めてきた場合も想定していたのでは。
ちなみに宇都宮貞綱はその京都防衛軍を率いて博多に向かっている。
博多の総大将北条実政は文永の役のときのように御家人に抜け駆け等を禁じて
あくまでも上陸させないことを目的とした戦をしている。
まず分散した各地の軍は上陸させないことを目的とし敵を食い止め、
そしてその間に各地の兵力を集結させて一気に決戦に持ち込む作戦だったのではないか。

633 :名無し三等兵:2007/10/16(火) 08:29:25 ID:???
近畿に大軍置くのは、瀬戸内海を通って海路急襲される危険性があるからでは

634 :名無し三等兵:2007/10/16(火) 09:00:53 ID:???
むしろ当時の幕府軍の動員・兵站システムの限界でしょ
従者含めて一万ほどと見られる文永の役の動員さえ、国内経済に深刻な問題が出た
兵力は多いほうがいいが、食わせることや統制には限界がある
そのギリギリが分散配置になったのでは?

635 :名無し三等兵:2007/10/16(火) 09:02:06 ID:uAOB4XOy
>>634
それも考えられる。
いずれにせよ鎌倉幕府は博多だけ守れば大丈夫っていうような軍事音痴ではないようだ。

636 :名無し三等兵:2007/10/16(火) 09:28:32 ID:???
この時代の兵站システムはかなり整備されていたよ。
鎌倉幕府は戦時には一国平均役として荘園・公領を問わず、一律に兵站を徴収
できる権限を持っていた。
兵站面は問題ない。

638 :名無し三等兵:2007/10/16(火) 10:17:24 ID:???
文永の役の際には水城に糧料が贅沢に貯蔵されていたという文献もある

641 :名無し三等兵:2007/10/16(火) 16:36:45 ID:???
改めて元寇に関する情報をネット上で当たってみましたが
文永の役に関する認識が03~05年あたりで随分変わったような印象を受けます

「戦場レベルでは日本優勢」→日本側騎射&楯射の集団戦で持久もしくは優勢
手柄狙いの一騎駆けは撃退される。
追撃戦及び機動戦に関しては元軍側に騎兵少なく日本側優勢。
弓矢で撃ち合ったか弓騎兵で突撃したか、で総じて白兵戦の要素は希薄
なんで戦闘の規模の割に双方の損害は少ないと思われる。

「戦術レベルでは日本劣勢」→元軍は初動で1万5千程度の兵力を無傷で上陸。
対する日本側は戦域からはなれた所に所領を持つ御家人の日和見により
兵を集められず主戦力は北九州に領土を持つ御家人がほとんど。その数約5千
戦場レベルでは日本優勢で一部は逆に元軍を敗走させるほどだったが
海岸堡は終日確保されたままで全体で見ると兵力差でじりじり圧迫される。
水城への撤退が敵の圧迫のためか食料のためかは分からなくなったが
算を乱した敗走でないのは確実だ。

「戦略レベルでも日本優勢」→元軍側は抵抗の激しさから日本軍の兵力を
過大に見積もる。また兵の統率(主に士気と人種の壁に由来)に困難を感じたのと
日本側の後詰めに脅威を見い出し早期撤退を選択。
仮に戦闘を継続しても太宰府の占領は不可能だったろう。
ただし終止兵力で優位に立ち陸戦では決定的な大損害も出さなかったので
「散々に打ち負かされた」というほどの認識もなかったと思われる。
「思ったより手強い相手だ」というのが指揮官レベルでの認識かな。
手柄代わりに町を焼き奴隷を確保して撤退。途上嵐に遭遇して大損害。

以前言ってた「文永じゃ集団戦法で日本圧倒的に劣勢説」及び「元軍の威力偵察説」は
論拠が薄いんで改めて撤回しますー



644 :名無し三等兵:2007/10/17(水) 00:22:46 ID:???
元軍が島国日本を甘く見てた
当時の日本人は世界的に見ても、意外に軍事センスがあった
日本海は荒れやすい

元軍は植民地軍主体でやる気イマイチ
日本軍は当然、全員が本国軍でやる気マンマン

こうやって見ると、負けフラグが立ってますな>>元軍

しかしまあ、なんだって日本の中学や高校の歴史教科書ってのは、
嘘ばっかり教えるのかね?
太平洋戦争関係の記述は日教組の暗躍で改竄されてるのは分かるが、
中世日本史の記述まで改竄されてるのは理解に苦しむ。
645 :名無し三等兵:2007/10/17(水) 01:03:55 ID:???
>>644
>元軍は植民地軍主体でやる気イマイチ


そもそもこの部分が歴史教科書の嘘。
高麗は自分から何度も日本侵略を進言しているし、江南軍10万も参加希望者を
募って編成されている。
それに、モンゴル帝国の侵略は昔から常に植民地軍主体。



646 :名無し三等兵:2007/10/17(水) 01:44:33 ID:???
高麗軍は非常に積極的、
モンゴル人、漢人の軍は慎重ないし消極的で
高級指揮官は両者の調整に難儀したと聞く


647 :644:2007/10/17(水) 07:43:23 ID:???
>>645

なるほど。
教科書に騙されていないつもりの俺も騙されていたって事かorz


650 :名無し三等兵:2007/10/18(木) 11:17:09 ID:???
日本側は元船への乗船襲撃はやったけど、敵船に放火したというのはあまり聞かない。
船内皆殺しにしてから焼き討ちとか、そもそも斬り合う以前にゲリラ放火とか、いかにもありそうだけど。


665 :名無し三等兵:2007/10/18(木) 22:28:07 ID:ZMhp3bsS
しかし、モンゴルほど文字通り”世界中”で災厄をもたらした存在も珍しい。
ユーラシアの文明圏ではモンゴルの侵略を受けなかった地域がないくらいだ。
おまけに中世のペストの流行もその責任の過半はモンゴルにある。
直接間接にモンゴルよって殺された人間は世界中で何人いるか見当もつかん。
今や純真無垢な顔をして、草原に引っ込んでいる奴らだが、その祖先をたどれば
ほとんどは殺戮者に行きつくだろう。朝青龍もまた然り。
恐ろしいものだ。

666 :名無し三等兵:2007/10/18(木) 22:34:04 ID:???
モンゴル人は平和的な民族というイメージあるけどな。
民族衣装は詰襟で戦闘服みたいでかっこいいと思う。

667 :名無し三等兵:2007/10/18(木) 23:09:39 ID:???
>>665

まあいいジャン。その子孫達が
スタ-リンに虐殺・・・もとい粛清されまくって
十分に報いは受けたジャン

668 :名無し三等兵:2007/10/18(木) 23:59:42 ID:???
>>666
大らかなのと平和的なのは違うぞ
当時は略奪を生活の一部と思ってたから何の悪意もなく攻めてくるんだぜ

669 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 00:18:41 ID:???
うさぎ狩りの感覚で人を狩る訳だ。オソロシス

670 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 15:16:21 ID:qUOfM7Vq
>>650
切り込みトップバッターの草野次郎が焼き討ちを普通にしてるぞ。

671 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 16:31:57 ID:???
>しかし、モンゴルほど文字通り”世界中”で災厄をもたらした存在も珍しい。

吉利支丹のほうがよほどすごいと思いますが


672 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 18:00:20 ID:???
板違いかもしれませんが、元寇当時の日本の人口や穀物生産量の判るサイトとか知っていたら教えてもらえますか。
兵力と密接な関係が有ると思うので。

673 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 19:50:06 ID:???
日本の人口の推移
ttp://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/1150.html

674 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 20:02:58 ID:???
鎌倉幕府成立時が684万人
関が原合戦時1227万人

文永の役5千人とかよく聞くけど、戦国時代の兵力動員数と比較すると、
5千人と言えば、文禄の役で対馬の宗氏だけで5千人動員してる。
そう考えると文永の役日本軍総兵力5千人は少なすぎると思うよ。
郎党をカウントしてないのかな?

675 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 20:46:13 ID:???
1586年島津氏が大友氏攻略戦に際し動員した兵力は4万7百余騎
島津氏だけで(4万7百余騎)だよ。

やはり文永の役日本軍総兵力5千人は少なすぎると思う。


676 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 21:19:16 ID:lqD9V2/R
>>675
文永の役はいわば不意打ち喰らったようなもんだから。
もう何日も戦が長引いてたらもっと九州各地から馳せ参じてきただろう。


677 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 21:42:40 ID:???
>>675単純に準備不足かと。
文永の役で動員を開始したのは対馬が襲われた、と報告があがってから
本土に元軍が上陸するわずか一週間足らずの間で
さらに元軍に対する認識不足と日和見から
北九州に所領を持たない御家人の中には兵を動かさない者が多かったと聞く

本土での主な戦いは丸一日しか行われなかったし、
これが何日も続く戦いだったら日本側も後詰めを繰り出すことにより
日本側の総兵力はかなり増加してたはず。


この時の反省からか弘安の役までに指揮統制能力の強化と動員数増加のため
九州と中国地方の守護職はその多くが北条一門とその与党の人間に交代し、
さらに豊後や安芸の守護には御家人でない武士まで指揮する権限が与えられた。

そして文永以後幕府は私的な大陸貿易のルートを通じて元軍の情報を収集しており
元軍の第二次侵攻を半年前には察知して動員をかけることができた。
これが文永、弘安両戦役の動員数の大きな差につながったのだろう。

678 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 22:02:18 ID:???
>>673>>674
ありがトン。
意外と当時の日本の人口って多かったんだな。
増加したのは戦国時代の後というのは知っていたけど
(戦国時代による各種改革により人口増加、でも戦国時代の間は戦乱で減少するのでトータルではトントン)
10万人動員しても14%か。かなり大目ではあるけど社会が立ち行かなくなるほどではないか。
ただ、鎌倉武士って農業も営んでたんだよね。
戦に出ている時って農地はどうしたんだろ。

679 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 22:17:09 ID:P26HzXcy
農業を営んでるったって、ほとんど地主でしょ。奉公人もいただろうし。
座敷の上で旦那面してるだけで食えたとは思えないが(昔の労働生産性だし)、
主人が戦に行ってる間くらいは家族や家人や小作がなんとかするだろう。

680 :名無し三等兵:2007/10/19(金) 22:45:58 ID:???
5千ってのは博多湾の正面戦力だけだろう。

681 :名無し三等兵:2007/10/20(土) 11:29:21 ID:???
領民を軍役に駆り出すことが常態化した戦国時代と
基本的に武士及びその郎党従者だけが動員対象だった鎌倉時代を一概に比べるのも乱暴だと思うが

682 :名無し三等兵:2007/10/20(土) 15:43:35 ID:???
元寇時の兵力ってどれくらいだったの?

683 :名無し三等兵:2007/10/24(水) 03:49:19 ID:???
承久の乱では一応19万騎動員したことになってるから最大でそのくらい

684 :名無し三等兵:2007/10/24(水) 16:26:08 ID:???
奥州合戦では関東以西から28万騎動員

685 :名無し三等兵:2007/10/25(木) 00:44:47 ID:???
>>684
人口684万人のうちの28万騎かあ・・・。
って、あれ?4%?
25人に1人が参戦?
人口には女性や子供、老人も入っているだろうから
それを除いてざっと成年男子の8人に1人が参戦かあ。



・・・人口か動員数、どっちか間違ってない?

686 :名無し三等兵:2007/10/25(木) 02:28:01 ID:???
>>685
別に不自然な数字ではないが

少なくても戦国期の動員ではもっと多い比率で動員されてる。
鎌倉期でも戦国期でも兵力の最大動員数の対人口比に根本的な差はないだろう。

687 :名無し三等兵:2007/10/25(木) 02:39:04 ID:???
奥州合戦時、源頼朝の動員兵力28万(勢力圏に奥州が含まれない)
小田原征伐時、豊臣秀吉の動員兵力30万(勢力圏に奥州に加えて関東が含まれない)

奥州合戦時、源頼朝の動員兵力28万という数字はそれほど不自然ではないと思う。


688 :名無し三等兵:2007/10/25(木) 02:41:17 ID:???
>>685
>ざっと成年男子の8人に1人が参戦かあ。

戦争で赤紙が来るのが8人に1人なら殆どの奴が戦争に行かなくていいんだぞ!
気楽なもんじゃないかw

689 :名無し三等兵:2007/10/25(木) 03:32:44 ID:???
>>683
>承久の乱では一応19万騎動員
承久の乱では東国だけでこれだけ動員したんだから
西国を合わせればもっと多くなる。

692 :名無し三等兵:2007/10/26(金) 10:10:21 ID:???
源平合戦では源氏が行った大量動員のために
騎射で敵を討ち取る技量のない者まで騎乗の士として続々紛れ込んで
そのために「馬当て」などの形振り構わない戦法を取る者が増えたのを
老武者は嘆いたとか。

693 :名無し三等兵:2007/10/27(土) 18:06:08 ID:???
源平合戦や元寇の頃の騎馬武者と徒歩武者の比率ってどの位だったんだろう。
馬って維持に手間が掛かるから、遊牧とかでないと金持ちしか所有出来ないんだよね。

694 :名無し三等兵:2007/10/28(日) 18:31:21 ID:8e5mAbnC
>>693
このぐらい
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm


695 :名無し三等兵:2007/10/29(月) 21:57:12 ID:???
>>694
それだと鎌倉武士のほとんどは騎馬武者(たった一人の徒歩武者も側に馬がいるから、単に下馬しているだけ?)
ということになりますが。
28万匹の軍馬を揃えるのはさすがに無理では?

696 :名無し三等兵:2007/10/29(月) 22:39:12 ID:KGOaysmn
奥州合戦の28万はさすがに誇張。
実数は7万くらい。
ただ阿津賀志山の2重堀は全長3キロだから奥州藤原氏も数万の軍はそこにいた。
5千程度ではさすがに手薄で長すぎて守りきれない。
そんな藤原氏に対し畠山重忠は大木やら岩を堀に投げ込んで埋めるという物量作戦で堀を破って突撃した。
鎌倉軍は奥州軍よりは圧倒的に多かった。

697 :名無し三等兵:2007/10/29(月) 23:48:57 ID:MWVCO8Y9
>実数は7万くらい。

どのような根拠に基づいてで導き出された数字なのか
そこを聞かせて欲しい

698 :名無し三等兵:2007/11/01(木) 14:05:12 ID:???

つうか家の事情やそのときどきの戦術によって騎馬と徒士の比率は変わるだろ
ほとんど騎馬で構成されるときもあればほとんど徒士の場合もある
その中間のときもあるだろ


あるいは移動時は騎馬の周りに徒士がいるが戦闘が始まったらまず騎射しながら突っ込むこともあるだろう

山徒寄京都事では六波羅がたは弓も太刀もみな騎馬、対する比叡はほとんど徒歩だった



699 :名無し三等兵:2007/11/03(土) 19:58:24 ID:???
鎌倉幕府の奥州合戦兵力が7万の根拠を>>696は何も示せない。

そこで7万では少なすぎる根拠をこちらが示そう。

文禄の役では九州だけでも8万以上の兵力を動員している。
奥州合戦では藤原氏が治める奥羽を除く関東から九州薩摩に至る全国から動員されている。
にも係わらず、たった7万では文禄の役に於ける九州だけの動員兵力8万より少ない。
そんな少ないとは考えられない。
吾妻鏡の28万ならば文禄の役に於ける九州の動員率対人口比よりも寧ろ低い。
よって十分に信憑性のある数字と言える。

704 :名無し三等兵:2007/11/06(火) 23:49:48 ID:RQ2hx3vo
当時は兵力ってどうやって数えるの?一々頭数数えるの?野鳥の会会員でも無理っぽい。
まさか、印象。なら、誤差ありまくりだろうし。
部下の自己申告まかせなら、常に過大な数字が上がってくるだろうし。

何にせよ、近代以前の兵数なんて話10分の1で聞いた方が無難。


705 :名無し三等兵:2007/11/07(水) 00:04:23 ID:tNaQvzMO
朝日が報じた11万人が実は1万数千人だったというからなぁ。


706 :名無し三等兵:2007/11/07(水) 00:34:37 ID:???
>>704
厳密に数えるだろ。
その数字が恩賞の対象になるんだから。
元寇の際の動員では、土地の広さによって人数だけでなく弓や馬などの数にも厳密なノルマが課せられていた。
部下の自己申告まかせの過大な数字を鵜呑みにして、そのまま恩賞与えるわけないじゃん。

707 :名無し三等兵:2007/11/07(水) 03:40:39 ID:???
>>704
元寇より後になると合戦注文や手負い注文等の軍忠状が始まる。
これは戦闘や人数報告はもちろん負傷者とその原因報告等々の色々な提出をさせ第三者のチェックが入る。
兵は士卒や小物・馬係やなんかの身分も載ってて配分で戦闘員比率までわかる。
一三〇〇年代のでも相当数現存してるので学者や歴史家が調べておおまかな合戦人数を割り出してる。
わからないのもあって論争になるけど200年分以上の軍忠状からある程度の予想はつく。
元寇以前のはわからんけど南北朝から戦国時代の動員数はそんなにおかしくないと思うよ。

708 :名無し三等兵:2007/11/07(水) 12:42:07 ID:26VUhmWz
>>707
第二次大戦時ですら時々怪しいですよ。
特に戦果報告になるともう。
撃墜数と相手側の戦闘機の損害数とが合わないことなんてざら

709 :名無し三等兵:2007/11/07(水) 13:26:18 ID:???
>>708
敵の兵力や戦果など相手側の情報が良くわからないのは当然なんだよ
それと自軍の兵力を正確に把握できるかとは別問題だろ

711 :名無し三等兵:2007/11/08(木) 00:08:17 ID:???
平成の御世にも蒙古が猛威を振るってます。両国とかでw


712 :名無し三等兵:2007/11/08(木) 09:09:45 ID:???


http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e03.htm


713 :名無し三等兵:2007/11/09(金) 18:11:01 ID:???
両国で猛威を振るってる方の兄は総合でフルボッコ連敗して帰りました


715 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 14:15:09 ID:c0uf7trj
>>641
亀だが
>威力偵察

当時の戦術に近現代の話がどこまで通用するかは疑問だが、近代的戦術では威力偵察とは
「限定的攻撃により敵の行動を偵察する戦術行動」だな。野球に例えると、一回一回の打席で
臭いコース突いて「打者が『その打席で』どんな球を狙っているか」に相当する。
それぞれの打者に得意はあれど、必ずそれを狙う訳じゃないから、基本的にはその打席での討ち取りを狙う
ためのもの。「次の打席のために打たれる危険を犯す」のはわりにあわない。それを戦術に当て嵌めると
「威力偵察はその会戦での勝利に寄与」するために行う訳だ。

となると、数年後の会戦のための威力偵察なんてものは合理的じゃない訳だな。
まああくまでも近代的戦術に照らした上での話だが。

717 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 14:55:03 ID:c0uf7trj
グダグダ書き込んだが、まあ結論としては個人的には威力偵察説に疑問を呈するが、戦術論だけで
威力偵察説を否定するのは無理があるかな、と。

718 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 16:29:17 ID:???

七年もほっとく威力偵察なんてないだろ


720 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 16:42:08 ID:???
威力偵察説ってのは最初モンゴル史研究者の杉山が言い出したんだけど、突っ込みどころが
多すぎて、本人はすぐに言わなくなった。
最近の著書では、元軍が文永の役を敗北と認識していたらしいと認めるようになって来ている。
どうしても日本の勝利を認めたくない奴が、今でも根拠がないまましがみついてるけど、既に
定説でもなんでもないよ。



722 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 16:55:56 ID:???

元軍は日本と交易を行っていた耽羅人から、大宰府侵攻には2~3万の兵力が
必要との情報を得ていた。
だから、その通りの兵力で攻めてきた。
日本全土の征服を目指していたわけじゃない。

728 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 20:30:16 ID:???
>>726
上陸軍と日本軍の戦いが一日で終わったとしている史料は、いささか信用度に
疑問がある「八幡愚童訓」だけなんだよね。戦闘は数日続いたという説も有力に
なりつつあるようだ。

729 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 20:57:39 ID:???

こういう史料もある

『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」

『金剛仏子叡尊感身学正記』
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」


730 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 00:30:11 ID:???
フビライの南宋攻略戦で、当初蒙古軍の投入兵力は
南宋の最大兵力よりも大きく劣っていて大した数ではなかった。
しかし、一旦南宋防衛の象徴ともいえる襄樊が陥落すると、
南宋の軍兵は士気崩壊し雪崩を打ったように蒙古へ寝返りが続出して彼我の
兵力差が逆転して南宋は崩壊した。

同じように日本でも防衛の象徴的拠点である大宰府さえ陥落させてしまえば、
後は寝返りが続出して彼我の兵力差が逆転し、勝利できる
との計算があったんじゃないかと考えてるんだが。

戦争には士気崩壊って現象があるでしょ。
敵の士気を崩壊させて
「敵の兵力を吸収していく」ってやり方じゃなかったのかな。
蒙古の征服活動は当初敵国の総兵力より少ない数で始められるケースは珍しくないのではないかと。

731 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 01:43:30 ID:???
文永の役のタイミングって襄樊戦の推移で決定したように思うのだが。
襄樊の陥落で精鋭を対日戦に投入できる目処がついたので、日本を攻める決心をしたんじゃないかと。
日本史研究者たちは、どうしても三別抄の乱が遅らせてくれたことにしたいみたいだけど、
当時は既に三別抄は死に体で、使者とかも平気で対馬海峡往復していたから、
ほとんど影響無かったはず。

732 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 08:41:13 ID:aXLFWNZD
>>731
そうだね。やたら中韓に媚びたがる学者やそいつら後押しするマスコミは
その手の説を吹聴したがるけど三別抄なんか全然関係ない。


733 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 19:30:16 ID:liXkyKam
>>732
南宋が粘っていたおかげという点では、「中韓」のうち「中」は
貢献してるんじゃね?

735 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 23:36:37 ID:???
>>733
中国や韓国が日本を守るために戦ってくれたのなら感謝もするが、単に自分たちのために
戦っただけで、しかもその後モンゴル軍の一員として日本に攻めてきた連中に、何で感謝
しないといけないにさ?って話。
「○○のお陰で攻めて来るのがおくれたから感謝するべき」なんて理屈を言い出すのなら、
モンゴル軍のサハリン侵攻が20年以上遅れたのは、鎌倉幕府が元と戦ってくれたお陰
なんだから、アイヌにも感謝してもらわないと。


736 :名無し三等兵:2007/11/14(水) 08:50:29 ID:???
>>732
あと、三別抄からの救援要請に鎌倉幕府が応えなかったことを「半島情勢に無知」
と非難してるのもおかしい。

当時の半島では、救援要請の半年前に三別抄の拠点の珍島が陥落。
大敗した三別抄は戦力が兵船1000艘から80艘に激減。
三別抄が擁立した承化侯温は捕らえられて処刑、という情勢だった。

三別抄は軍事的に何も期待出来ない状態だったわけで、元の侵攻が近いと九州の
御家人に警戒を促した鎌倉幕府の対応の方が、歴史研究者たちの主張する三別抄
との共闘策より、遥かに現実的。
半島情勢に無知なのは、鎌倉幕府ではなく戦後の歴史研究者たちの方だろ。


737 :名無し三等兵:2007/11/14(水) 20:12:57 ID:7ahkQUd1
>>731
中心人物の金精通とかいう人は文永の役よりとっくに前にくたばってるのにねw
しかも三蔑抄ってあんま成果挙げてないし



738 :名無し三等兵:2007/11/14(水) 21:02:59 ID:???
>>731
襄樊戦と文永の役は別系列で進められてるよ。

739 :名無し三等兵:2007/11/14(水) 21:09:43 ID:???
>>736
三別抄を救援しなかったことを非難してる人達ってね

もしも、鎌倉幕府が三別抄救援のために半島に出兵していたとしたら

「反乱勢力である三別抄を利用して高麗王朝を攻撃した卑劣な侵略行為である!!」 とか言って非難するんだよ。
そういう人達だから・・・



740 :煽りでなく:2007/11/15(木) 00:07:30 ID:???
つうか誰?
白石一郎くらいしか共闘せんかったのを批判的に書いた人、俺知らんけど
研究者で名前あげて

741 :名無し三等兵:2007/11/15(木) 08:53:27 ID:???
>>740
村井章介や海津一浪。

『蒙古襲来 対外戦争の社会史』海津一郎 吉川弘文館
P15
「村井章介の強調することだが、モンゴル帝国との対応のなかで、国家が分裂して
武人政権が崩壊した高麗、冊封をうけて属国化したベトナム、国の滅んだミャンマー
(パガン朝)などと比べれば、日本の被害など取るにたらない小事件であった。
高麗や南宋の抵抗勢力から、共闘を呼びかけられたのに対して、まともな回答すら
できなかった国際間隔のお粗末さの方を問題にせよと村井はいう。」

P34
「蒙古襲来に抗するため、高麗側(三別抄反乱軍)からは日本に同盟を求めたのに
対して、日本側はそれを無視していわば「火事場泥棒」のように元の属国高麗を
襲おうとしたというのである。幕府の高麗出兵計画は、半世紀のうちに壮挙から
侵略へと、大きく評価を振幅させたことになる。」



742 :740:2007/11/15(木) 09:14:39 ID:???
海津一浪 → 海津一郎
国際間隔 → 国際感覚

743 :名無し三等兵:2007/11/15(木) 16:19:24 ID:GolhwmZA
三別抄とは高麗王朝と戦う反乱勢力である。
その三別抄と連携するということは、高麗王朝と戦い征伐するこということである。
たしかにそういった選択肢はあったかもしれない。
しかし、この時は文永の役の前であり、高麗王朝から日本に攻めてきた訳ではないから
こちらから攻めて行くのは道理に適わないことだった。

ただし、文永の役で高麗王朝から侵略を受けた後にはそうした道理は失われた。
そこでかつては考慮されなかった高麗出兵計画が持ち上がった。
この計画が実現していたなら雌伏していた三別抄の残存勢力が再び立ち上がり
共に戦ったていたかもしれない。
文永の役後の高麗出兵計画こそ三別抄との連携が実現するチャンスであったのだ。

744 :名無し三等兵:2007/11/15(木) 22:31:50 ID:7tmtNSMD
>>743
文永の役のときはもう三別抄は滅んでいた。
それに三別抄は日本に同盟を申し入れる一方で蒙古には
南朝鮮の支配権を認めたら降伏するなどと言っていた
全く信用おけない二枚舌。



746 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 00:14:31 ID:???
>>744
>文永の役のときはもう三別抄は滅んでいた。
滅びる前に連携しろとか村井あたりが言ってるんだろ。

747 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 01:21:56 ID:Ee9f9Git
そんなのが東大教授かよ(;´Д`)

748 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 02:00:27 ID:???
東大教授w

姜尚中
和田春樹
高橋哲哉


東大卒他大学教授
吉田康彦
吉見義明

749 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 07:44:46 ID:???
こうして見ると日本の愚劣さのシムボルだな・・・>東大

まあ立派な学者もたくさんいるんだろうが。

750 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 09:50:18 ID:???
人と同じことをしても話題にはならない
東大出で普通に優秀な人が話題にならないのも同じ
つまり東大の有名人というのは(r

751 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 12:19:44 ID:???
>>748
高橋哲哉は「韓国が靖国批判するのはナンセンス」って1行で切って棄てる
すてきな左翼さんだよ

752 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 15:35:05 ID:???
>>748
その三人の東大教授が登場するw
http://www.tanteifile.com/diary/2006/11/04_02/

特に和田春樹、高橋哲哉に注目。

753 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 15:53:56 ID:???
>>752 右翼ナショナリズムを煽ってHIT数稼いでるのかな。

754 :名無し三等兵:2007/11/16(金) 16:07:21 ID:???
>>752
さすがに名誉鮮人ジャメイカ?

755 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 00:07:00 ID:???
玉川大学の元寇サイトもひどいな

756 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 00:57:45 ID:???
>>755
ゲイツに聞いたが酷いな(;´Д`)
斜め読みしただけでも
・中華思想に対等な関係などありえない(「不宣」はむしろ脅しを強調するためのものと解釈すべき)
と言う、当時の基礎的視点が欠けている
・未だに日本は個人戦闘で戦ったと言う出鱈目を垂れ流し
・高麗や南宋がいかにも日本のために努力したかのような論調
もはや救いがたいな。



760 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 20:16:17 ID:???
>>756
書き出しが「大蒙古國皇帝奉書」で始まってるところを見るに、
普通に修好を求めてきてると考えた方がいいと思うよ


761 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 20:33:48 ID:???
>>760
その国書を持参した使節が日本に滞在していた時、フビライは外交の裏で高麗に
日本征服のための準備をさせていたんだが・・・
最初から侵略の意図がありありじゃん。



762 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 20:46:33 ID:???
>>761
>フビライは外交の裏で高麗に
>日本征服のための準備をさせていたんだが・・・

一二六六年の段階でそんな動きあったっけ?


763 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 20:55:08 ID:???
>>762
日本に最初の使節が到着したのは1268年だよ。
この年、フビライは日本と南宋に対する征服の意図を明確にし、そのための戦艦1000艘の
建造を命じている。



764 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 20:59:53 ID:???
>>763
使節が到着したのは1268年の何月で、
日本と南宋に対する征服の意図を明確にし、戦艦1000艘の 建造を命じたのは1268年の何月?



765 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 21:15:56 ID:???
>>764
使節が高麗を発ったのが1267年9月23日。
戦艦1000艘の建造を命じたのが1268年5月29日。
使節の高麗帰還が1268年7月18日。


766 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 21:41:49 ID:???
>>765
高麗史によると、高麗が戦艦1000艘の建造を命じられたのは一二六八年一〇月一三日のようだが?

767 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 22:04:53 ID:???
>>766
1268年10月13日のは、元の役人が5月に命じた戦艦建造の進み具合を視察に来たって記事だよ。
だから、更に100艘の追加を命じてるだろ。
高麗が戦艦1000艘の建造を命じられた記事は、高麗史だと列伝の李蔵用伝。
その他に元高麗紀事の至元5年5月29日条。
あと、元史高麗伝の至元5年5月にも同様の記事がある。


768 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 22:18:09 ID:???
うーん、1266年から1268年5月までの間に方針が変わったということか

770 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 01:02:16 ID:???
モンゴル帝国は世界征服を国是としていた国。
そのことは国書にも明記してある。
実際に日本の隣国の高麗も武力で征服したが、そのことも国書に書いてある。

自国の隣国を侵略し、こんな国書を送って来るような国と友好的な外交関係を
築けると考える為政者がいたら、そっちの方がよっぽど外交オンチだろ。
鎌倉時代の日本人は、チェンバレンを首相に据えて空想平和主義に浸っていた
第二次大戦前のイギリス人より、遥かに現実的な外交感覚の持ち主だったって事。


771 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 01:23:24 ID:???
>>770
それはない。
何であれ、相手のことは知っておかないとね。
公式、非公式問わず、使者を派遣するなりして。


772 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 02:15:33 ID:???
>>771
鎌倉幕府は相手のことをよく知っていたよ。
元の侵略準備の合わせて、防衛の準備を進めてるだろ。
あと、非公式の使者なら1272年に元へ派遣している。


773 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 03:56:30 ID:???
>>771
「属国になって、朝貢使を送って来い」って言う相手に
使者を送るのは、「属国になりますよ」ってことになるの。



774 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 04:04:00 ID:???
>>773
ローマ教皇やフランス王は属国になってないよ

775 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 04:15:54 ID:???
>>774
でも、モンゴル帝国の方はフランス王が属国になり貢ぎ物を送ってきたと解釈した。
それでフランスに更なる貢ぎ物を要求して来たから、聖王ルイは使者を送ったことを
滅茶苦茶後悔したんだって。
フランスはモンゴルと隣接してなかったから後悔だけで済んだけどさ。
北条時宗は聖王ルイより賢かったね。


776 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 04:33:03 ID:???
>>775
勿論。
しかし、なってない、だろ。
朝貢なるものを杓子定規に考えすぎでは?
それに教皇やフランス王がともかくも接触しようとした姿勢は、
当然のことだと思うがな。


777 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 04:43:12 ID:???
>>776
属国になってないのは隣接してなかったからだろ。
隣接した国には属国になるか、戦うかの二者択一しかなかったじゃん。


778 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 07:33:02 ID:???
その伝でいくと、日本側が元に「友好関係結びましょう」って返答したら、次の国書は「南宋攻めるから兵だせや」
になる可能性が極めて高いよな。日本の対応を非難する人はそんな事ありえないって考えなのか?
779 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 13:00:38 ID:???
当時の鎌倉執権の政策決定には、南宋からの亡命坊主の影響が大きい。
禅宗の坊主たちを優遇したのは、大陸情報を仕入れる為だったと考えて良い。
まあ、南宋も日本を味方につけたかったってことかもしれんけど。


780 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 18:10:22 ID:???
>>778
戦う方針であったとしても、
とりあえず情勢探索もかねて使者(どういう形であれ)を派遣してみればいいじゃん。
破裂するのは「南宋攻めるから兵だせや」と言ってきた後でも構わないんだから。


781 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 18:13:28 ID:???
そして向こうでも使者が首切られる

782 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 18:46:47 ID:???
情勢探索の方に重きをおいていることがバレなきゃ問題ない。

783 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 23:57:44 ID:???
使者を送ると
属国と見做されるから

>>774
ローマ教皇やフランス王は中華秩序なるものを知らなかったし
ちょうどイスラムと対立してたこともあってモンゴルと組もうかとの考えもあったから
使者を送ったって事情。


784 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 00:22:44 ID:???
プレスタージョンと誤解してたという話も聞いたことがある。

785 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 07:17:05 ID:???
>>780
だから非公式の使者なら1272年に派遣したと言ってるだろーが。
日本側は属国と受け取られない範囲で、できるだけのことは全部やってるんだよ。


786 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 15:47:17 ID:???
『国書の解釈』
 最後から三行目の「用兵」の前後は、誰が読んでも脅迫文ですが、
それ以外は、当時の高麗人が元皇帝の奴隷としてこき使われていた事を知っているかどうかで、
解釈がまったく違ってくると思います。
 高麗が立派な独立国だったと思っている人にとっては、「用兵」以外は、

「私たちと仲良くしましょう。そうすれば高麗と同じように面倒をみてあげます」
 ――と言っている事になるかもしれません。
 しかし、高麗人が奴隷だった事を知っていて読めば、
「貢ぎ物を持ってきて俺たちの奴隷になれば生かしておいてやるが、そうしなければ皆殺しだ」
 ――という意味だと、すぐに分かります。



787 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 16:52:44 ID:???

当時の日本人の『国書の解釈』↓

『外記日記』文永4年11月25日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」



788 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 22:00:23 ID:???
蒙古からの国書のここ

高麗君臣感戴來朝義雖君臣而歡若父子計
王之君臣亦已知之高麗朕之東藩

誰が読んでも高麗は蒙古の属国って判るだろ。

「高麗と同じように面倒をみてあげます」とは
「高麗と同じように属国として扱う」という意味になる。



789 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 22:06:49 ID:???
玉川大学の元寇サイト
 ↓↓↓

>しかし,最近の研究で「国書」は日本を属国にしようと脅しているのではなく,ただ国交
>を結ぼうと言っているにすぎないのではないか,とも言われるようになってきました.
≪中略≫
>属国とか支配することまで考えていなかったのではないかと言われるようになってきました.

 ↑↑↑
こういうのは明らかに歪曲



790 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 22:23:47 ID:???
玉川大学の元寇サイトが「国書」について
なんで「ただ国交を結ぼうと言っているにすぎない」などと歪曲するかといえば
日本側の対応が悪かったから、それが元寇の要因になったかのように導くため。


791 :名無し三等兵:2007/11/20(火) 14:30:33 ID:6Lqsv9xC
元からの最初の使者が日本で外交交渉をおこなっていた真っ最中の1268年5月、
フビライが高麗の役人に対して発したお言葉。

「爾、爾が国に還り、速かに軍額を奏せよ。不らずんば、爾をして将に之を討たしめん。
爾等、軍を出して、将に何れの国を討たんとするか知らざらん。朕、宋と日本とを
討たんと欲するのみ。今、朕、爾の国の猶お一家のごときを視る。爾が国、若し難あれば、
朕、安んぞ敢えて救わざらんや。朕、不庭の国を征するに、爾が国の出師し助戦すること、
亦た其の分なり。爾、帰りて王に語り、戦艦一千艘、米三、四千石を載すべきを造れ」

朕、宋と日本とを討たんと欲するのみ・・・



792 :名無し三等兵:2007/11/22(木) 13:02:50 ID:???
>>790
>ダメならダメとはっきり言うのが今も昔も国際的な
>ルールです
この時点で嘘だな。
条約締結国が訳文を各々都合良く翻訳するのは
良くあることだ。

793 :名無し三等兵:2007/11/22(木) 22:56:16 ID:???
>>792
確かに
足利義満が日本国王になったといっても、
別に日本は明の属国になってないもんな(永楽帝の頭の中ではいざ知らず)
入朝なんてしなかったし、独自の年号立てて勝手にやってたんだから
条約や国際慣習なんてのは、現実に則してどうとでも形を変えるものなのかもな


796 :名無し三等兵:2007/11/26(月) 04:40:54 ID:???
高麗軍の将(都督使)「金方慶」率いる高麗軍は
戦略的に意味が無い対馬・壱岐に執着し、防備の薄いこの島々を攻め膨大な非戦闘員を殺戮した。
島々におけるこの行為は遠征目的と何の関係もなく、
それにフビライは"百姓を殺すな"と命じていた。
この無用の残虐行為は主将の「金方慶」の性格、朝鮮人の民族性によるとの事である。

彼らは島民を見つけ次第、男子は斬殺し、女子は手の掌に穴を
あけて綱を通し船舷にぶらさげるなど残虐の限りをつくした。
家屋は焼き尽くされ、家畜の被害も甚大で、壱岐牛も一頭もいなくなった。」


「ムクリ・コクリ」が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほど、
その残虐な行為は壱岐・対馬・北九州の人達に恐怖感を植えつけています。
ムクリー蒙古―元、コクリー高麗のことです。「蒙古トハ異国ムクリノ事
也」(『沙汰未練書』)というようにムクリが通用していました。

高麗軍と闘った将士がことごとく
戦死すると、敵兵は住民を捕らえ暴虐の限りを尽くしたということです。
山に逃げ隠れ潜む住民の赤子の泣き声を聞いて、捜しまわり、
捕らえては、ことごとく殺しました。
中には、命惜しさに愛する我が子を刺し殺して、
逃げ隠れする者もあったと伝えられています。
捕らえられた妊婦は腹を裂かれ、中の赤子を掴み出されて殺されました。
意にそまぬ婦女子は手に孔をあけられ縄を通してから、
引きずり回され、後、舷外に吊るされました。


(新元史・鎮西要略・壱岐国史・元寇物語)


799 :名無し三等兵:2007/11/26(月) 20:13:34 ID:???
>>796
こういう歴史を教科書に載せないから
集団自決が強制とか騒ぎ出すお花畑がのさぼるんだよな


800 :名無し三等兵:2007/11/27(火) 00:15:28 ID:???
800なら堀江由衣がながされて藍蘭島のすずのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら田村ゆかりがリリカルなのはStrikerSの高町なのはのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら能登麻美子がウィッチブレイドの天羽雅音のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら川澄綾子がFate/stay nightのセイバーのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら折笠富美子がスクラップド・プリンセスのパシフィカのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら柚木涼香がうたわれるもののエルルゥのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら千葉紗子が舞-HiMEの玖我なつきのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら田中理恵が機動戦士ガンダムSEEDのラクスのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800ならゆかながコードギアスのC.C.のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら高橋美佳子がグレネーダーの天道琉朱菜のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら釘宮理恵がゼロの使い魔のルイズのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら斎藤千和がARIAの藍華のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら中原麻衣が舞-HiMEの鴇羽舞衣のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら清水愛がおねがい☆ツインズの小野寺樺恋のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら森永理科が瀬戸の花嫁の銭形巡のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら植田佳奈がFate/stay nightの遠坂凛のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら生天目仁美が一騎当千の関羽雲長のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら伊藤静がゾイドジェネシスのコトナ・エレガンスのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら佐藤利奈がギガンティック・フォーミュラの神代真名のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら下屋則子が神無月の巫女の来栖川姫子のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら大原さやかがARIAのアリシアさんのコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら佐久間紅美が極上生徒会の桂聖奈のコスプレでアナルセックスさせてくれる。
800なら小林沙苗がエルフェンリートのにゅうのコスプレでアナルセックスさせてくれる。

801 :名無し三等兵:2007/11/28(水) 02:39:17 ID:???
こんなデタラメを許してると韓国のようにデタラメが
当たり前になって国力が低下する。

802 :名無し三等兵:2007/11/28(水) 18:54:17 ID:aJv3gimM
>>746-754
東大教授は偏向思想持った輩ばかりだな。
凄い反日と朝鮮擁護の羅列だ。


<トオル孤喊>日本がデポドン理由に振舞うのはコミックショー
東京大学黒住真教授インタビュー
ttp://japanese.joins.com/article/article.php?aid=93274&servcode=100§code=140


803 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 08:38:38 ID:vHM5GXAx
【文永の役再び?】 韓国、日本全土を照準に入れた巡航ミサイルを配備  【高麗襲来?】

韓国、日本全土を照準に入れた巡航ミサイルを配備
ttp://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000002704

原子力発電所をその攻撃目標ととらえるなら、韓国が核武装したのと
同じ効果がある。
チェルノブイリ原発事故でも分かるとおり、原発が破壊されれば
半径300キロ以上が破壊、放射能汚染され、壊滅状態となる。
日本列島を縦断する形で5基の原発を破壊すれば日本は壊滅する。

対北用ではなく、日本、中国を仮想敵にした配備であることは軍事筋の
共通した見方だ。



804 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 10:39:33 ID:???
巡航ミサイルじゃ原発は抜けないけどな。核でも使わん限り。(で核使えばアメリカにガッ!!されるんだが)

805 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 13:35:58 ID:???
>>803
危害範囲がどこまで及ぶか解ってるのかな?
恐ロシアも巻き込むぞ。
やっぱり、斜め上だ。

806 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 16:56:18 ID:???
>>772
>非公式の使者なら1272年に元へ派遣している。

ひょっとして赤マフラーですか?

807 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 17:16:03 ID:???
巡航ミサイルでも原発破壊できるんじゃないかなー

808 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 21:43:33 ID:???
鉄筋たっぷり入った1m厚コンクリ2枚(場所によってはそれ以上)
と15cmの鋼鉄容器抜けるかな
大和の装甲抜けるなら何とかなるかもしれない


809 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 21:49:25 ID:???
ごめん、ここでは2m 2枚だった

http://www.kajima.co.jp/news/digest/mar_2003/site/site.htm

810 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 22:45:23 ID:???
韓国巡航ミサイルネタは
 ↓ここで
韓国軍総合スレ234
http://hobby10.2ch.net/test/read.cgi/army/1195728104/l50

811 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 11:57:28 ID:DaiB2gRb
問題は直撃で抜けるかどうかより
施設の破壊や死傷者による機能停止→メルトダウン
のほうじゃないの?


812 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 12:03:42 ID:???
原発の構造を理解してたらそんな馬鹿なことは言わない。
そんな簡単にメルトダウンするか阿呆



813 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 12:14:29 ID:???
ttp://www.youtube.com/watch?v=--_RGM4Abv8
つまり原発の壁か硬いと

814 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 14:07:13 ID:???
>>812
俺だったら関連施設も含めて
100発でも200発でもぶち込むけど
それでも機能維持するの?


815 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 14:20:09 ID:???
原発の構造を理解してても運用を理解してないんじゃね?

817 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 13:02:03 ID:???
>>813
貴重な実験ですがカラの戦闘機の衝突に耐えられても巡航ミサイルに耐えられる証明にはならないように思われます

といいますか…まあスレも暇だからいいんでしょうけど…ちょっと脱線が過ぎる気が…


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コメント
この記事へのコメント
  1. 名乗るほどの者では…  2007/12/27(木) /02:05

    なんで最後ミサイルの話になってんの?w

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