【モンゴル】 元寇 3 【高麗】~神風は運?実力?~【日本】【海外】【天晴】

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【モンゴル】 元寇 3 【高麗】~神風は運?実力?~

3 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:02:02
史料では文永の役は元軍の完敗



『元史』巻一百五十二 列伝第三十九 劉通
「十年、遷征東左副都元帥、統軍四萬、戰船九百、征日本、與倭兵十萬遇、戰敗之。」

『高麗史』八十七巻
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」

『鎌倉年代記裏書』
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北、」

『帝王編年記』
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。」

『金剛仏子叡尊感身学正記』
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多、即退散畢、」



4 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:45:00
元は欧州やイスラムとも交流があった世界帝国の一翼
日本はバカな武士が頑迷にも外交使節を虐殺したために、世界から取り残されてしまった
かえすがえすも残念だ



5 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:53:05
モンゴルの使者処刑って当時の世界の外交では常識的な対応だよ


6 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:03:53
元以外の中国の王朝ってどうして日本に攻めてこなかったの?
平安時代って基本的に常備軍がなかったとか聞いたことがあるけど
そういう情報って商人とかを通じて向こうに知られたりしなかったんだろうか。
実際に攻めてきたら撃退できたのかな。


7 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:35:01
>>5
嘘つけ
交戦中ですら使者のやりとりすらあったのが当時だ
殺した場合はホラズムのような壮絶な報復受けても文句言えない
日本の内戦の慣例を適用するとしても使者は殺さないものだぞ



8 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 12:50:42
>>7
ホラムズだけじゃないだろ。
エジプトのマムルーク朝も使者を処刑してる。
あと、ビルマのパガン朝も雲南の大理国も使者を処刑してるな。
北ベトナムの陳朝に送られた使者2人はいきなり投獄され、1人は拷問によって
獄中死してるし、南ベトナムの占城も交戦中は使者を処刑してる。


日本も文永の役の前は使者を生かして帰したんだけどね。
モンゴルはその使者にスパイさせて攻めて来たから処刑は当然の処置。

10 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 14:31:47
>>6
唐が元気なときには朝貢してたから。唐に元気がなくなると止めた。
テラ現金。

大元ウルスには「朝貢?ハァ?」って対応したので攻めて来た。


11 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 15:49:37
>4
外交使節を処刑したから取り残されたのではないのでないかい?当時の
鎌倉幕府は外交問題よりも内政問題の方がより深刻だったから、そっち
にばっか気を取られて外交がお留守になっちゃったのでは?大体文永の
役の前に蒙古国書が来た後も二月騒動が発生してるし、弘安の役が終わ
った直後も身内人と御家人の対立から霜月騒動が起きて、しかもその後
は得宗専制支配で内管領の独裁でしょ?国内が無茶苦茶だからどうしよ
うもなかったんじゃない?



12 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 16:01:49
「世界から取り残されてしまった」って何?
元朝時代の日本と大陸との文化や経済の交流はそれまで以上に活発に行なわれているのに。
モンゴルを撃退したマムルークは世界から取り残されたの?
モンゴルに征服されなかったヨーロッパは世界から取り残されたの?
モンゴルに征服されたロシアの方が遥かに取り残されてる感じだけど。



13 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 18:28:08
元と日本が実は民間レベルでは普通に交易してたことを知らないアホの子が紛れ込んでるスレはここかい?
だいたい商人が宋や元と普通に取引してた日本が世界から取り残されてたんなら
当時のサハラ以南のアフリカとかシベリアの北の方とかはどうなるんだよw



14 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 18:33:15
>>6
大元ウルスはモンゴルの王朝。


15 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 19:51:37
>>6
律令的常備軍がなくなっても非武装=無防備になったわけではないし。
坂上田村麻呂なるものが、源頼義なるものに変化した。

それから、半島からは結構頻繁に、
今と同じように「拉致」や「略奪(強盗)」目的(国家主導の場合もある)で来ている。


16 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 19:57:08
そもそも幕府が元の第二次遠征の時期を実行の半年も前に知り得たのは
個人的な大陸貿易を通して元軍の情報収集に努めてたからだそーだ。
(このことと北条氏の西日本における専制強化により弘安のときは
総体で10万を超える動員をかけることができた)
文永以後は使者を皆殺しにしてたことといい
元が最終的に太宰府より東の情報を入手できなかったぽいことといい
当時の武士は諜報に関する意識がかなり高かったことを伺わせる。



17 :日本@名無史さん:2007/10/26(金) 23:00:00
北条家は実は平氏


18 :日本@名無史さん:2007/10/27(土) 11:37:32  
そういや高麗も使者ぶち殺したせいで酷い目にあってたっけ
話し合いの機会を持とうともしなかった幕府の精神的鎖国っぷりは凄まじいな


19 :日本@名無史さん:2007/10/27(土) 13:48:36
文明史学の大家トインビーがモンゴルに支配された地域で近代化に成功した国はどこにもないと言ってた。
納得。
東は韓国から西は東欧まで、確かに先進国はどこにもない。
鎌倉幕府偉い。



21 :日本@名無史さん:2007/10/27(土) 14:53:29
>>18
世界中の国々を片っ端から滅ぼしてきたモンゴル相手に話し合ってどうなるというの?

鎌倉幕府の外交はまともだった。
日本を臣下扱いした国書に対してはまともな国書を持参するまで外交はしないと態度で示し、
また使者と称しながらスパイ活動したものは厳罰に処する。
そして侵略してきたモンゴル軍には敢然と立ち向かい、高麗兵は容赦なく殺す。
殺された高麗兵自業自得。


22 :日本@名無史さん:2007/10/27(土) 15:59:38
>>18
鎖国って・・・お前少し上のレスすら読めない文盲?


23 :日本@名無史さん:2007/10/27(土) 21:28:04
ホラズムが滅ぼされたときは
地方の太守が貢ぎ物目当てでモンゴルの使者を皆殺しにした上、
国王がそれを何ら咎めなかったのが理由で最終的に
攻め滅ぼされるに至った。
ここはモンゴルをなめすぎだってばよ。

高麗への元の侵攻の発端になったのは、高麗から戻る途中の使者が
盗賊にブチ殺されたのを「高麗が殺害した」と元が疑ったこと。
高麗が殺したわけじゃないんよ。
高麗は一部は「かような小城が大軍と渡り合うとはもはや天佑と言うより他無い」
と元軍に言わしめるほど頑強に抵抗したが民の反乱や将の寝返りなどが相次ぎ
国力をすげー勢いで疲弊させてしまう。
イタ公といい多勢より無勢の方が手強いのは半島の軍隊の特徴なんかな?



24 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 01:10:16
>>23
すげー読みにくい文章を我慢して最後まで読んだが

>元軍に言わしめるほど頑強に抵抗した

って何所?韓国の国定教科書かなw




26 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 01:37:13
>元軍に言わしめるほど頑強に抵抗した

亀州城防衛戦での話です。朴犀、金慶孫て武将が大活躍してますね。
ネタ仕入れたのはここ
ttp://www.geocities.co.jp/SiliconValley-SanJose/4402/histo2-2.html

金慶孫 ????~1251
高麗の武人。
1231年に静州の司令官となり、モンゴル帝国の侵攻に対して決死隊を募って
僅か12名の参加者と共に亀州救援に赴き、果断な突撃を繰り返して
防戦に成功して勇名を轟かせた。
この功績により1237年に全羅道の指揮官に抜擢され内乱の平定に活躍したが、
1249年政権を牛耳る崔氏に妬まれその讒言により流罪とされ、
後に縁戚の罪に連座し刑死した。
救国の軍人の一人である彼の死は民衆を嘆かせたという。



27 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 01:59:49
高麗史にも金慶孫列伝
ありますね・・・

朝鮮の武将でここまで意地を見せた武将は
珍しいんじゃないでしょうか





28 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 03:51:56
韓国の教科書
蒙古は義州を武力制圧。亀州を攻めるが朴犀が固く防衛。蒙古軍は迂回し開京を包囲。
開京は十分な戦備なく、武臣政権はあわてて蒙古の要求通りの講和を結ぶ。
http://homepage1.nifty.com/~kibouhou/history/jk/genkou.html

enjoykorea
朴書(朴犀?)の指揮の下キジュ性(亀州)守備軍は結局モンゴル君の攻撃を撃退させた.
モンゴル君は "空が助けるところです, 人の力ではない."と歎息しながらキジュ性で退いた.
http://enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&page=4&nid=93467

亀州で検索しても十一世紀の戦闘ばかりorz
一部に頑張った兵もいたけど大勢に影響は無かったってことでFA?


29 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 10:39:50
>>23
高麗について、使者殺害は故意じゃなかったとしても、一度全面降伏した後に、
モンゴルが送って来た役人を皆殺しにした件は言い訳できないだろ。
降伏しておきながら、相手が撤退した途端に平気で違約を繰り返すのは卑怯。


30 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 10:49:36
>28
姜維が剣閣で防衛しているあいだに
艾が険路を強行して緜竹を陥とし
蜀が降伏した話を思い出した

こういう武将を中国人はどう評価するのかな(苦笑



31 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 12:41:31
>>23
高麗への使者が殺害された件で
殺害後高麗は自分たちの仕業じゃないって言ってるけど
盗賊の仕業ってソースあんの?
>>28のリンク先では韓国教科書は女真がやったって書いてるらしいけど。
女真の仕業ってソースあんの?
少なくても蒙古は高麗の仕業と見做したわけだけど。




32 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 13:01:14
>>23
とはいえモンゴルに滅ぼされる前のホラズムは、実は中央アジアにおける超大国だったんだよな。
だからモンゴルをなめてかかるのも無理ないかと。
ていうか、モンゴルと戦う前から冷静に彼らの戦力分析した国って実は無いんじゃね?
どこも最初は簡素な鎧で、狩人みたいな格好で攻めてくるモンゴルのことを舐めてたのでは?


33 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 13:28:23
>>31
気に食わない話が出てくる度に
ソースソースってうるさいな
せめて反証のために
韓国の教科書以上に確実な資料を引っ張ってきてから
そういう反論はやれよ。
単なる水掛け論になっちまうだろ



34 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 14:08:26
>>34
だけど韓国の教科書なんて最初から最後まで大嘘だらけなんだから、
韓国の教科書を持ち出した時点で歴史の議論にはならない。



35 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 14:57:12
韓国の教科書は確かにソースとするには問題がありすぎるね。


36 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 15:41:15
いずれにせよ高麗の忠烈王はモンゴルに対しこの上なく忠烈で
モンゴルから従軍処女500人差し出せと命令されたら婚姻禁止令
まで出して命に忠実に服したという事実。
三別抄は南朝鮮の支配権を認めてくれればモンゴルのいうこときく
なんて勝手なこといいながら日本に同盟持ちかけたりと節操のない
連中。決して高麗人民解放のため戦ったわけではないという事実。

この2点は正しい史実と認識しないかぎり元寇の論議は歴史討論と
して成り立たない。



37 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 15:47:34
>>33
いちおう聞くが、韓国の歴史教科書執筆者は、
教科書作成に係わったことを明らかにされると、
名前をだした相手を名誉毀損で訴える確信犯だぞ?

冗談のような話だがこれは事実。


38 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 16:41:30
>>37
そうか。韓国でも本当に良心的な学者は教科書編纂に手を染めたことを不名誉だと感じているんだ。



39 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 17:39:42
ばかか。
韓国で本当に良心的な学者は教科書編纂なんかに手を染めるわけないだろ。
それがわかると学者として自殺行為だから、匿名で執筆し、
教科書作成に係わったことがばれたら、逆ギレして
名前をだした相手を名誉毀損で訴えることで恥辱行為をはぐらかそうとする。


40 :日本@名無史さん:2007/10/28(日) 18:29:11
>4
使者を殺したから云々といってるが
文永の役の前に来た使者は丁重にお帰りいただいてるわけだが


42 :日本@名無史さん:2007/10/30(火) 01:01:08
>>40
ずーと元からの国書を無視していたら、
高麗の忠烈王が、フビライに対して「武力でやりゃいいじゃんよ、ウチもばっちし協力するよ」
って進言いれて可決された。

『世祖本紀』(元朝)
高麗国王請自造船百五十艘助征日本。


『高麗史』(朝鮮)
惟彼日本未蒙聖化故発詔。使継糴軍容戦艦兵糧方在所須。
儻以此事委臣勉尽心力小助王師。



で、文永の役で侵略軍を撃退後に、
杜世忠を正史とする使者がのこのこやって来てスパイ紛いの行為もあって
初めて鎌倉の龍ノ口で使者を斬った。
で、弘安の役開始。

よく日本史知らない人が使者を斬ったから元が来寇したなんて主張しているけど
ちゃんと日本史勉強していれば、使者を斬ったのは文永の役で侵略を受けてから。



43 :日本@名無史さん:2007/10/30(火) 04:17:57
確か二回目の元冦の時はかなり防御力がうpして普通に戦えたんだよね?


44 :日本@名無史さん:2007/10/30(火) 07:06:13
>42
杜世忠や何文著もスパイ行為してたの?使者を斬ったのは前回侵略された
からというよりは蒙古に対して断固たる態度を示すためだったからでは?
>43
日本軍は博多に防塁築いたり、那珂川に乱杭打ち込んだりして防衛力の強
化を図ってたからね。それに第一回では蒙古軍の弓の方が射程距離が長か
ったために武士は苦戦を強いられたけど、二回目は弓を改良して蒙古軍の
より射程距離を長くしてたみたいだし。



45 :日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:13:18
>44
もともと弓の射程距離は日本の方が長かったよ。
だから、一回目の文永の役でもあっさりと元軍を撃退できた。


46 :日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:20:59
刀が改良されたのも元寇でそれまでの日本刀の欠陥が露呈したからだしな
時代遅れだったが一回目を辛うじて撃退できた僥倖を利用して二回目はがちがちの防御戦術
少なくとも学習能力はあったから良かった
昭和の軍隊なら二回目で全滅だぜw



47 :日本@名無史さん:2007/10/30(火) 08:52:30
>46
二回目の弘安の役で日本軍はがちがちの防御戦術なんかやっていない。
むしろ徹底した攻撃戦術。
元軍が志賀島に上陸したらこれを攻撃し、相手が壱岐に撤退すれば船団組んで更に攻撃し、
遂には鷹島にまで追撃している。



48 :日本@名無史さん:2007/10/30(火) 18:44:30
>44
>46
みたいな無知がつけ上がるのってどうにかならんかね。



50 :日本@名無史さん:2007/10/31(水) 18:36:11
>46
刀を改良?そりゃ初耳だわ。
広い砂浜なんかでは軽装で機動力に勝る蒙古兵が有利だったって聞いたけど、
狭い船内では逃げられない蒙古兵は簡単に日本兵に討たれたって・・・。


51 :日本@名無史さん:2007/10/31(水) 21:36:55
彼、前スレからいるけど、あんまりいじめると可哀想だよw



52 :日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:52:04
>>32
いや、同盟者だったクチュルクがあっけなく敗死しているし、侵攻を受ける前に色々準備もしているので
かなり警戒してはいても、舐めて掛かっていたということは無いだろう。

むしろ、主戦力として当て込んでいたカンクリ部族がモンゴル側に寝返ることを恐れて野戦を避け、籠城戦に
持ち込んで程良く敵側が疲弊して退却する頃を見計らって反撃、殲滅する心づもりだったらしいが、これが
裏目に出たのが致命的な誤算だったと思う。モンゴル側が大量の攻城兵器を前線に投入して各都市を片っ端から
陥落させられ、泡を繰ったスルタン・ムハンマドはホラーサーンへ逃走。体勢を立て直す前にジェベ率いる部隊が
追撃してきて、イラン中部での遭遇戦でムハンマドの軍隊は敗退・瓦解してしまった。

ホラズムシャー朝の敗退の原因はいくつかあるが、モンゴルと比較した場合、国力の差は置くとして、まず母親の
テルケン・ハトゥンとの対立を引きずって国内の権力を一元化出来なかったことが終止アキレス腱になっていた。
カンクリ部族出身のこの母后はムハンマドの世継ぎ問題でも対立し、ムハンマドも妥協したものの自分が発行した
勅令に反する独自の命令を各地に発令することもしばしばで、国政はややもすると混乱状態になることもあった。
致命的な事は、カンクリ部族はどちらかといえばテルケンの方を支持していたため、テルケンに対しては果断な
処置が出来ず、分が悪かった。(テルケンがモンゴル側と内通しているという話もあったそうだが)




53 :日本@名無史さん:2007/11/01(木) 00:53:47
>>52の続き。
『世界征服者史』のホラズム軍40万騎がどれだけ本当かは分からないが、少なくともモンゴルよりは多勢であった
らしい。ゴール朝や西遼との戦闘のように、野戦で決着をつけても良かったはずだが、それが不可能だったのは
やはり内部対立がこの時それほどまでに深刻だったということなのだろう。

次に、やはり、籠城戦ならばそれらの事情を押して勝てる!と踏んだのだろうが、モンゴル側が予想に大きく反して
攻城兵器を多用して次々と城塞や都市が陥落していったので、この時点でムハンマドの賭けは大外れしたんだと思う。

モンゴルの場合、1206年のモンゴル高原統一前後までにチンギス・ハンは自勢力で自分と伍する権力者をあらかた
粛正をし終えていて、西方遠征の時には権力を一元化出来ていた。ここら辺の違いはやはり大きいと思う。
(ここら辺の問題はバルトリドとか亡き本田実信先生、例の杉山せんせとか色々書いているけど)


54 :日本@名無史さん:2007/11/01(木) 13:55:04
相州伝はモンゴルに日本刀が効かなかったというよりは
思ったより元軍が軽装だったので猪首蛤刃のデカブツよりももう少し軽めにして鋭い刃がある刀のほうがいいかもねという発想
そしてどうせ刃を鋭くするなら今までの強度を維持したまま鋭くしたいじゃんということで強度を落さずに薄くする工夫がなされた

てかそもそも対モンゴルを目的とした工夫というのは実は根拠がないんだけどね
なんとなく時期が近いから無理やりこじつけられてるとも



55 :日本@名無史さん:2007/11/05(月) 23:27:26
しかし、モンゴル側は防備を固めた博多湾ではなく、別の地点に上陸しようとしなかったのは何故だろう?
いっそ瀬戸内海に入っちゃうとか。


56 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 04:08:27
それじゃ大宰府までの道がわからない


57 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 04:22:45
大宰府は必ず占領しないといけない拠点だったのだろうか?
というか、元軍は日本の地理をどこまで理解してたのだろうか?


58 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 08:06:49
>>57
元の使者は大宰府までしか来たこと無いから、確実に把握していたのはその周辺だけだろ


59 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 09:05:12
日本は平安時代から外国人は大宰府までしか入れない風習があった。
平安中期、日宋貿易は盛んだったけど宋人は京都に入ることは許されなかった。
雅で軍備を解体して国防に無頓着だった平安貴族たちも何故か外国人の入国には敏感だった。

例えば藤原道長の甥、中納言隆家は目を悪くしたとき、大宰府に宋の名医がいると聞いて自ら大宰権帥に任官を志願して九州に赴いた。
権力者の甥っ子でも宋人を都に呼べなかったのだ。
隆家がちょうど九州に行ったとき襲来したのが、刀伊。
貴族とはいえ法皇に矢を射掛けて流罪になった前科を持つ豪傑肌の隆家が現地の武士を集めて指揮して撃退したが、
防衛拠点は大宰府ってのが平安時代、いや白村江の敗戦以来伝統としてあって日本の玄関大宰府は見せてもその奥は断じて見せないっていうのがあったと思う。

平清盛が福原に港開いて宋人を福原に入れるようにしたとき貴族たちの反発は凄かったというから。



60 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:52:11
なるほど。
だとしたら元軍の日本攻略は、かなり情報不足の状態で行われたということか。
下手したら日本が地理的に奥行きのある島国だということも知らなかったのではないか。


61 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:54:22
史書を紐解けば、
隋や唐の時代、中国の官僚が大和にある都まで来たことがあるから
それくらいは分かると思う・・・


62 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 16:17:34
ならやっぱり波の高い玄界灘に居ないで、艦隊を瀬戸内海に進めてしまえば良かったのに。
で、大阪湾まで行って部隊を上陸させて京を目指す。


63 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:02:36
 瀬戸内海は島が多く、潮の流れもあるし、いきなり攻め寄せられるものでもないと
思う。
 飛び石で対馬→壱岐→(博多)→(大宰府)→京 ってわけにはいかないんでは。

それと交易がある程度あれば、地理やその他の事情は知られていたと思うのだが。



64 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 17:16:29
元と明では日本の情報量に差がある


65 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:00:32
補給の問題もあるし、近いところに橋頭堡を築きたいのは当然のことじゃないかな
九州北部を確保できれば、そこを拠点にしてじっくり料理すればいい
実際には料理されちゃったけど




66 :日本@名無史さん:2007/11/06(火) 19:21:38
だって敵前上陸って軍事史的にもあまり成功した例がないし、成功したとしても消耗が激しいでしょ。
敵前上陸が成功した例ってノルマンディー上陸作戦くらい?
他に大規模上陸作戦として有名な、WW1に於ける英国のガリポリ作戦では英国軍はトルコ軍の頑強な
抵抗にあって失敗しているし。

敵に上陸地点を察知されている時点で作戦成功の確率は低くなる。


67 :日本@名無史さん:2007/11/07(水) 11:12:05
敵前上陸に成功した例は日本だと、1336年の湊川の合戦の足利尊氏。
あと、1555年の厳島の合戦の毛利元就とかかな。

世界だと、海上からコンスタンティノープルを攻略した第四回十字軍。
1271年の元軍による珍島攻略と、1273年の耽羅島攻略。
1535年にチュニスを攻略したカール5世。
1661年にオランダ東インド会社が支配する台湾に侵攻した鄭成功。
1758年、フレンチ・インディアン戦争におけるイギリス軍のルイスバーグ攻略。
1776年、イギリス軍のアメリカ独立戦争におけるスタテン島、ロングアイランド島、マンハッタン島攻略。
1854年、クリミア戦争での英仏連合軍。

探せばまだまだ幾らでも見つかりそう。


68 :日本@名無史さん:2007/11/07(水) 19:01:06
>>67
毛利は特殊な例ではないか
厳島に陶軍を引き込んでその尻を村上とかせがれのウルトラ三兄弟共に突いた

敵前上陸で勝つには物量作戦にかぎるな


69 :日本@名無史さん:2007/11/08(木) 05:55:34
水際防衛が有利ってよく言うけどさ、水際防衛にもいろいろ問題あるよね。
海岸で敵を食い止めようとすると、主力を広く浅く配さなくちゃいけないから。
文永の役の日本軍5000で20キロの海岸を守るには、1人が4メートルの幅を受け
持つ必要がある。
しかも、一点突破されたら終わりだし。
あえて水際防衛を行なわず、内陸でまとまった兵力をぶつけるのも作戦的には
有りなんじゃないの。


70 :日本@名無史さん:2007/11/08(木) 11:32:41
>>69
それは話が逆なんじゃないかと思う。
上陸側の方がむしろ兵力を上陸地点に集中して拠点を確保する必要があるから
防御側の方が守りやすいのでは?
小出しにいろいろなところから上陸を図れば、各個撃破されるのおちだと思う。


71 :日本@名無史さん:2007/11/08(木) 18:22:47
>>62に関して、軍板の元寇スレで元の艦隊が瀬戸内海を東に移動して
一気に京に攻め上ることを警戒して、鎌倉幕府は京にも部隊を配置していた
と書かれていた。
元側も日本の地理情報をある程度持っていた模様。


72 :日本@名無史さん:2007/11/08(木) 19:42:31
敵前上陸大成功と言えば朝鮮戦争の仁川上陸とかも有名かも

よく攻撃側は防御側の3倍の兵力が必要と言われるけど、逆に言えば1/3で防御側は守れると言うこと。
同兵力なら海岸に1/3を配置して防ぎつつ、2/3を機動予備に回して敵主力上陸地点を集中して叩けばいい。
1対2/3でも十分勝てる。
ちょっと乱暴な計算だし数値に異論はあるだろうけど、基本的な考え方ね。

しかし、>69のように攻撃側はどこを攻めるか選べるというメリットもある。
ノルマンディー上陸でも連合軍は上陸地点はカレー地区だとドイツに誤断させて機動予備の配置を誤らせ、まんまと成功させた。
陽動でどこかに一部を上陸させて、敵を引き付けて他に主力上陸とかも可能。

と言っても上陸はどこでも出来るものではないので、地形等から自ずと場所が決まってくる。
なので敵前上陸は予測されていることも多いし、遮蔽物も少なく、最初から持ち込める装備も限定される。
よって敵前上陸は難しいとされる。

元寇は、というと、細かいこと抜きで戦力で圧倒して正面突破を試みた形と言えると思う。


73 :日本@名無史さん:2007/11/08(木) 20:22:37
元寇は敵前上陸自体には成功したが、あまりに消耗したので陸上に橋頭堡を築けなかったと見ることができるか。


74 :日本@名無史さん:2007/11/09(金) 02:27:56
致命的な損害を受けるとこまではいかなかったけど
このまま続けても目標達成できそうもないし
損害がヤバいことになりそうだと一日の戦いで見切ったんで
帰ったとか。


75 :日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:12:42
致命的な損害を受けなかった割には続行側の提案した作戦は背水の陣
かなり必死



76 :日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:24:11
>>69
そんなに均等に配置する必要はない 歩哨をたてておけば大船団がくれば
かなり時間的余裕をもって確認できる
ただし、防塁はどこにきてもいいように築いておく必要がある


77 :日本@名無史さん:2007/11/09(金) 18:39:30
この戦いで大きな打撃を受けたのは
兵数よりも元軍将兵の士気の方だと考えてる。
元軍と日本軍の間にはかなりの兵数の開きがあったし
(戦力比で1対3か1対4くらいか)
戦闘そのものも楯突戦と比較的少数の弓騎兵による突撃、追撃がメインで
兵力面で元軍側が大損害を被った、という状況が想像しにくい。
兵力に劣る日本側が果敢に攻めてきたんで恐れをなしたんじゃないかな?


78 :日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:38:56
文永の役の元軍の指揮官が撤退時の軍議で、
「時間が経てば経つほど自軍が不利になる」
「少数で多数には勝てない」
と言っているのは、今日はともかくも、時間が経てば敵兵力が増大すると見ての発言だろうね。
この発言から、少なくとも元は当初日本軍の集結前に目標を攻略するという戦略的奇襲を目論んでいたはず。

高麗の指揮官が撤退反対を唱えたように、元軍大損害というほどでも無い状況ならなおさら、ただ一日の戦闘で撤退を決めた元軍指揮官の判断力は評価できると思う。
事実、日本全国から戦力が集結中だったわけだし。


79 :日本@名無史さん:2007/11/09(金) 20:45:38
謎の元軍夜間撤退、壊滅の理由なんだが、
頑丈な構造の指揮官の船が「自分たちは夜でも帰れる。夜襲も怖いし先に帰ろう。兵隊のボロ船は朝を待たせて帰らせろ」と突然碇を上げて撤退開始。
他のボロ船はそれを見て「ウリ達を置いてかないでー!」と追走、風雨でボロ船が壊滅。頑丈な船は助かりました。
案外こんなんではないかと想像する。



80 :日本@名無史さん:2007/11/10(土) 02:26:18
日本側は博多湾に防塁を築いたが、その背後に木造のタワーは築かなかったのだろうか。


81 :日本@名無史さん:2007/11/10(土) 03:25:29
見張りに適した高所がもうあったんじゃね?
文永の後壱岐、対馬にのろし台作ってたって話は聞いたことある


82 :日本@名無史さん:2007/11/10(土) 16:57:22
高麗の指揮官が撤退反対を唱えたといっても
「船を焼き決死の覚悟で戦えばなんとかなる」というやけっぱちなこと言ってるわけでかなり冷静ではなくなってるよね



83 :日本@名無史さん:2007/11/10(土) 19:06:10
>>82
そうだな。
優勢であればそこまでのことをする必要もないわけだし、
冷静に考えれば大陸との連絡用にも船は必要だった筈だ。


84 :日本@名無史さん:2007/11/10(土) 19:46:28
そんな感じで高麗人はいつもの火病起こしたけど、蒙古人指揮官が冷静に引き上げ決定したってイメージ。


85 :日本@名無史さん:2007/11/11(日) 00:27:36
日本軍の意表を突いて若狭湾辺りから上陸作戦を展開していたなら、あるいは。


86 :日本@名無史さん:2007/11/11(日) 01:01:12
>>85
土地勘もないようなところにいきなり上陸するのは愚の骨頂かと思うけど。


87 :日本@名無史さん:2007/11/11(日) 04:06:21
>>86
上陸地点が北九州だろうが、その他の地域であろうが、土地勘がないことには変わらないと思うが。
それともモンゴル側は密偵を北九州に放っていて、予めある程度の情報を得ていたの?



88 :日本@名無史さん:2007/11/11(日) 04:58:04
>>87
モンゴル側は北九州の大宰府周辺については、訪日した使節が密偵として調べた詳細な情報を得ていた


89 :日本@名無史さん:2007/11/11(日) 14:59:27
>87
もうちょっと調べてから書いてくれ。


90 :日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:45:16
>>47
防御してないってのはさすがに言い過ぎかと思うよ。
現代戦術に照らせば、当初は火力戦闘を主体とした陣地防御から局地逆襲、その後攻勢に転じて洋上撃滅
を企図するまでに至ったって感じじゃないかな。

>>57
地形上、福岡一帯は海岸沿いと太宰府(と言うか水城)を押さえると、逆襲のための戦力推進が困難になる。
これまた現代戦術に照らせば、これらの地域を制することにより海岸堡の確保が完了する。
水城の地形的な価値と太宰府の政治・軍事的価値を見れば、この一帯の制圧が当初の上陸作戦における
目標なんじゃないかな。


91 :日本@名無史さん:2007/11/13(火) 12:52:37
>>76
陸自の古い戦術では準備陣と呼ばれてた方式だね。
確かに敵がどこに来ても対処可能だが、同時にどこにきても上陸直後の弱点を衝くのが困難で、
なおかつ複数正面への同時上陸に対しては脆弱性を曝すとして廃れた戦術だよ。


92 :日本@名無史さん:2007/11/13(火) 23:49:39
疑問なんだがたとえ大宰府落としても、後続部隊ないんだよな。
このあたりどうなってたんだろう。
やはり威力偵察と恫喝目的だったのかな。
それとも高麗に後続部隊いたの?



94 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 11:04:59
>>92
威力偵察はありえない
恫喝というのはざっくりしすぎだがそっちのほうがまだ該当する
大宰府落せばそれで日本がしっぽ振って朝貢すると思ってたんだろう

ようは自分らに有利な条件で制限なく貿易させろ邪魔すんなよということだよ
なのでモンゴルの軍事力を見せ付けるというのが目的といえば目的
返り討ちにされて全く目的を果たせなかったが


国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!


95 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 11:45:32
そういえば当時、逆に日本から大陸に打って出る作戦案があったらしいな。
結局は実行に移されなかったけど。


96 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 12:28:03
文永の後、朝鮮を松浦党が襲撃した記録があるよ。元史にも記載されてるはず


97 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 13:21:24
>80
前原市高祖山頂上付近に望楼跡がある。
グーグルアースで視界を斜めにして頂上付近から博多湾を見ると
博多湾が良く見えることに驚く。




98 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 16:08:31
>>94

これは元シカトされるわけだわ


99 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 17:51:48
日本の文献に登場するモンゴルについての一番最初の記事。

『外記日記』文永4年11月25日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」


最初から日本はモンゴルを侵略国家と認識して対応していた。


109 :日本@名無史さん:2007/12/11(火) 00:12:11
たとえ日本に負けたとしても元軍の主力は朝鮮人と南宋人。
厄介払いができるって寸法だよね。
うまい戦略だと思うよ。

113 :日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:35:57
高麗兵や南宋兵はともかく、高麗と南宋の水夫や艦船はフビライにとって虎の子だろ。
占城を拠点にインド洋支配を狙っていたフビライに、海軍力を提供できるのは、
実質的にこの二国だけなんだから。
弘安の役で江南軍が壊滅しちゃったせいで、その後の東南アジアにはしょぼい艦隊しか
送れなかった。



114 :日本@名無史さん:2007/12/17(月) 18:29:21
とにかく日本軍の対応がはやかったところと、夜襲の功名さやその勇気に点があがる。
他の国々では、元軍に翻弄されてなす術なしであったが、日本では武士団はこれに迅速に対応できた。
さらに他の国々では、恐れおののいて戦線離脱や降伏、あるいは城にこもってしまったが、
武士団はむしろ夜となれば夜襲をしかけ舟にまであがりこんで奮戦している。
対応能力と思想などなど、これまでの日本民族の歩を考える上で、特筆する点が多い。



115 :日本@名無史さん:2007/12/17(月) 22:09:17
>>114
確かに弘安の役のときの河野通有の勇敢な奮戦振りは凄いね。
夜襲で敵を恐怖のどん底に落としいれ、敵が夜襲に警戒すると今度は伯仲堂々の出撃。
敵がいったい昼間から何を?講和の使者か?なんて思って油断したところを斬り込んで。

通有の銅像をぜったいに建てるべきである。

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