元寇って本当に台風で勝てたの?何かおかしくない?

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元寇って本当に台風で勝てたの?何かおかしくない?【日本】【天晴】

昭和天皇の歴史教科書 国史(口語訳) 出雲井晶・訳 講談社
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、
高麗の兵を合わせ、数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、
まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、
元軍は深く侵入できずに退却しました。
文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』


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元寇って本当に台風で勝てたの?何かおかしくない?
1 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 10:14:20 ID:???
リアル中学生ですが教えてください。

歴史の先生から、

・鎌倉武士は個人戦法、一方の中国軍は集団戦法で、戦術的・文化的に大人と
 子供ほどの違いがあった
・日本軍の武器は太刀のみ、一方の中国軍は今で言う手榴弾や地雷のようなもの
 まで使い、技術力の差は絶望的だった。
・日本軍は徒歩での突撃、中国軍は騎馬兵中心で、日本軍には機動力っていう
 概念もなかった。

こんな状況で、当たり前のように日本は中国軍に散々蹴散らされ、もうダメだって言う
直前にたまたま台風が来襲して、偶然日本は助かった。
日本が勝ったわけじゃない。

こんな風に説明されました。

でも、何かおかしくないですか?中国軍は、海上から上陸してきたんでしょ?
最初の攻防は海岸線での上陸阻止戦なのに、なんで馬や地雷が関係あるの?
あと、散々苦労して上陸に成功したのに、夜はわざわざ船に戻って寝てたの?
台風で全滅したって事はそうなんだろうけど、普通上陸に成功したら野営するんじゃないの?

ただ単に、兵站が続かなかったから中国軍は撤退しただけじゃないんですか?


2 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 10:19:13 ID:???
当時まだ日本は大陸と地続きだったわけだが。
歴史で習わなかったか?



3 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 10:21:30 ID:e9mtJNDz
>>1
マンモスも元寇が連れてきたんだよ!




5 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:14:36 ID:E89cjkkI
>兵站が続かなかったから中国軍は撤退しただけじゃないんですか?

最初の文永の役についてはそのとおり。
というか目的は威力偵察ではなかったかという説もある。短期間で矢が尽きてるし。

>鎌倉武士は個人戦法、一方の中国軍は集団戦法

文永の役緒戦はそうだったが、鎌倉方もすぐに集団戦法に転じている。

>技術力の差は絶望的だった

弘安の役は防御陣地に依っての防衛戦。
そこで有効だったのは弓。弓の性能はむしろ日本のほうが良かった。

>中国軍は騎馬兵中心で

元軍は馬はほとんど連れてきていない。
高麗に突貫工事で造らせた舟は小型で騎馬の輸送には向かなかった。


6 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:23:05 ID:???
>>1
偏向教育ってまだやってんだな


7 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:26:54 ID:???
(´・ω・`)つ>>1消防


8 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:31:20 ID:???
台風とか関係ないよ
鎌倉武士は一人で百人をなぎ倒す猛者ばかりだった
元軍には人間台風として恐れられた



9 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:42:32 ID:???
> 戦術的・文化的に大人と子供ほどの違いがあった
> 技術力の差は絶望的だった。
> 日本軍は徒歩での突撃、中国軍は騎馬兵中心


日本の軍隊あるいはそれに準ずるものは、700年前からずっと
人命軽視、戦略皆無、戦術皆無、精神力さえあればおk
でどうしようもない代物なので、9条原理主義で軍備完全撤廃しようよ
というのが背後にあるんだろうな。



10 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 11:48:26 ID:???
海のシルクロードがどうのこうの言ったって日本を攻める理由がない
あれはモンゴル人による中韓の人減らしだったんだよ



11 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 12:12:05 ID:???
交戦勢力
鎌倉幕府地頭・御家人ら 元・高麗連合軍
幕府側指揮官 北条実政
元軍総司令官 阿塔海
その他の将 范文虎 忻都 洪茶丘 金方慶
戦力
幕府側約40,000人 元軍142,029人
損害
幕府側不明 元軍110,000人戦死・溺死

(「ビジュアル日本の歴史」より)

ワロタ どう見ても圧勝だろ
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
文永の役から弘安の役まで7年間もあったから何も対策してないわけないな
文永の役で対馬の人間は殺されるか奴隷にされるかしてるわけだし
話し合いのできる相手ではなかったんだろうな
馬鹿教師に教育してやれよw


14 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 12:19:30 ID:???
上陸戦力が船に逃げ込んだ時点で惨敗、
少しでも、余裕があれば、陸上で橋頭堡を維持するはず。



17 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 13:00:56 ID:???
つか元寇での元軍を中国軍とか呼んでる時点でおかしいw
弘安の役の方では旧南宋の兵もかなり混じってるけど、中国軍じゃないし

あと、日本軍は太刀のみってのも素人目に見てもおかしい
鎌倉時代からすでに刀は野戦ではあまり使われなくなっており(今の拳銃みたいなもん)、
野戦における主な武器は弓矢と薙刀


あと、日本軍が徒歩兵で元軍が騎馬兵ってのは逆だと思う
元軍は槍を持った歩兵中心で、日本軍は騎馬武者中心って小学校で習ったんだが・・・

18 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:06:18 ID:???

元軍側戦力約三万のうち三分の一から四分の一くらいが
朝鮮の兵であとは漢人とモンゴル人。
対する日本側は北九州に所領を持つ御家人約五千。
幕府の援軍はまだ太宰府に到着してなかったんでこの劣勢の兵力で持って
当初の元軍の攻撃を凌がなければいけなかった。

そして文永の役での戦いは互いに楯を構えての射撃戦と
日本側弓騎兵による襲撃が主だった。
(こっからは推測がまじります)
兵力に劣る日本側は弘安の役でやったような水際防御は最初から諦め
幕府の援軍と合流した後防衛の準備がある程度整っていた太宰府で
元軍に対し決戦を挑む腹づもりだったようです。
そのため初日の攻防はいくつかの海岸に分かれて上陸した元軍の
合流の阻止と足止めを目的として行われました。

また、手柄狙いのため少数の騎兵で襲撃をかけた御家人は多くいたようです。
ほとんどは射殺されたり重傷をおったりして撃退されますが
ある程度纏まった数で行われた襲撃は効果があったようで
元軍の一部を敗走させています。
あの蒙古襲来絵詞の有名なシーンは実はその敗走する元軍をうしろから
追っかけてるところなんです。


19 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:33:00 ID:???
実際文永の役であれだけの優勢にあった元軍も筑紫山地の向こうには行けなかったもんね

20 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:46:26 ID:???
兵力に劣る日本側は時間の経過とともに
ジリジリと内陸側に押し込まれていきますが
初日での元軍全体の合流を阻止した上。
上級指揮官の一人に重傷を負わせることに成功します。
戦力の差を考えると大健闘、てーとこですね。


日没後、元軍は上陸した浜辺に。日本軍は太宰府に引き上げていきます。
たぶん互いに食料を備蓄していた拠点に戻ったんでしょう。
そこで元軍の上級指揮官たちはこの戦いを続けるかどうか議論を行いますが
「上級指揮官の一人が重傷を負ったこと」
「激しい射撃戦で矢が尽きかけていること」
「今後は敵側に増援があり自分達の数的な優位は
失われていくであろう」
などの理由により明日以降の継戦を断念、
博多の町に放火し(元軍が放火した、という明確な証拠は無いそうだけど)
奴隷を捕えた上で全軍を浜から撤収させます。
帰り道に例の暴風雨に遭って一万以上の犠牲を出し、彼等はほうほうの体で
帰還していきます。




21 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:52:48 ID:???
おっと。
「兵の統率に困難を感じていた」
という理由もあったな。
ここらへんは人種間の問題かなあ。
兵だけでなく上級指揮官も漢人、モンゴル人、朝鮮人といて
(総指揮官はモンゴル人のヒンドゥ)
それぞれの見解に相違があったようだ。


22 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 16:54:36 ID:ni9w7DVy
>>17
一般論ではそのとおりなんだが
実際白兵戦になるような局地では往々にして
太刀と長物の比率は半々程度になる。

理由は一つではないだろうしこれときめつけられる決定的なものはないけど
もともと日本は戦闘にかんして極端「のみ」の兵装を嫌ったというのがある
長い得物は有利だが弱点もある
その弱点は他の武士が持つ太刀が補う
まあそんなこともあったんじゃないかな


http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e12.htm


23 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:00:38 ID:???
>日本軍は太宰府に引き上げていきます。

夜は大宰府の手前にある水城に帰ったと記憶しているが?


25 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:06:27 ID:???
>夜は大宰府の手前にある水城に帰ったと記憶しているが?

あ、ごめん。そこ間違えてた。水城ね。





27 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:22:19 ID:REpbohlr
>>11
元軍総司令官 阿塔海


阿藤 快の祖先か?


28 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:47:35 ID:???
あながち、>>1の教師の話もわざとではないと思う。
少し余談に入るが、元寇の記録は日本側と元側で非常に食い違いがある。

何かというと、日本側の記録にはことさら台風(いわゆる神風)が強調されている。
鎌倉幕府の行動も、皇室の行動もこれに沿うものが多い。
ところが、敵側の記録である「元史」を読んでも「高麗史」を読んでも、文永の役(1回目の侵攻)、弘
安の役(2回目の侵攻)ともに、蒙古・高麗軍の苦戦を記録している。

文永の役においては、日本軍によって撃破され、撤退するために舟に退却した夜に暴風雨にあった
と記録されており、弘安の役に至っては蒙古・高麗軍は「連戦連敗」であり、食料は尽き、疫病は流
行する中、日本軍の追撃を受け続ける悲惨な戦闘の様子が記録されている。

日本側の資料しか見ないでいると、>>1の教師のようになってしまうのは仕方ないかなあ、と少し思う。


29 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:51:12 ID:???
>>28
それ台風で大損害受けたって書くのが恥ずかしいからそう書いただけに見えるんだがw



30 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 17:57:37 ID:???
>>28
いや、あえて書かなかったのだけど、「蒙古襲来絵詞」に、武士団が戦功に基づく恩賞を強硬に要求しているのよ。
こっからは予想になるけど、鎌倉幕府は何故武士団の奮戦を認定しなかったのか。それは恩賞が金銭ではなく「土地」であったから。
元寇は純粋な防衛戦であり、勝利しても他国の領地は手に入らない。
つまり、それまでの国内戦と違い、幕府は元寇の功績として配分する「土地」を持たなかったから。
故に幕府は武士団の功績を過小評価し、恩賞を軽減させる必要があったのではないかと。



31 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:10:13 ID:???
『高麗史』八十七巻 「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、
至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」
『十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人』


ものすごいおおまかな書かれ方しかしてないな。
博多湾から上陸してんのに壱岐で戦ったように書いてるし
陸戦で出た損害なのか暴風雨で出した損害なのかすら区別して書かれてない、
というか暴風雨の記述自体がないな。

「元史日本伝」『冬十月、その国(日本)に入りこれを敗らんとするも、
官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る』

『鎌倉年代記裏書』『十月五日、蒙古が寄せ来て、対馬嶋に着く。
同二十四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、大宰府に於いて合戦し、異賊敗北』


こちらも暴風雨に関しては書いてないなー
「戦いで破った」てことになってるのがいつのまに
「神風で撃退した」てことになったのが気になる。
元側の記述だと単に「帰った」てだけで破れた、とは書いてないし
それぞれの記述の差がなぜ生じたのか考えるのも面白そうだ




32 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:13:01 ID:???
その高麗史の記述だと壱岐で負けたみたいに見えるが対馬と壱岐は2度とも労せずして奪ったんじゃないの?



34 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:21:55 ID:???
『鎌倉年代記裏書』の記述においても
実際には太宰府での合戦は行われていない、という点に注意。
実際は博多、赤坂など沿より岸に近いとこが戦場になった。

個々の立場の差とか、文献が書かれた状況とか、
細かい間違いや食い違いもたくさんあるから考察が大変だなあ



35 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:28:59 ID:???
>>34
実際にはつうか元軍が博多より南に来たっていう話を一度も聞いたことが無いのだが



36 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:30:46 ID:PH2c80bV
だいたい、元寇に使われた船って海を航海するのに不向きで、
日本に到着する前にもかなりの船が沈んでいたんでしょ。
接岸したらしたで、波に翻弄されてすぐひっくり返ったりさ。


37 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:34:36 ID:???
ついでにかっての定説だった
「日本軍、一騎討ちで元軍の集団戦法に大苦戦」てぇのの
根拠になった文献ものせとくね。
『三浦周行 『鎌倉時代史』 第70章』
十九日、敵軍舳艫相銜(ふく)んで筑前海岸に着し、先づ今津を占領し、
二十日、三郎浦(高麗史金方慶伝に拠る。三郎浦の三郎は早良にして、
同郡沿岸即ち百道原〈モモヂバル〉の沿海地区ならんといふ)に上陸し、
百道(モモヂ)、麁原、赤阪等の各地を侵す。
少弐経資〔?~1291〕、大友頼泰〔1222~1300.79歳〕、
島津久経〔1225~84.60歳〕、菊池武房〔1245~85.41歳〕、
竹崎季長〔1246~?〕、及び松浦党、児玉党等防戦甚だ力む。

初め我兵、高麗人を軽んず。以為らく、元兵も亦高麗人の如くならんのみと、
先きを争うて赴き戦ふ。然るに元兵は、攻城野戦の功を積んで、軍隊的節制行はれ、
其兵は軽捷勇猛にして射を能くし、馬に長じ、其弓は短しと雖ども、二町に達し、
且つ我軍の未だ知らざる鉄砲をさへ用ゐ、堂々たる密集戦法を以て我が幼稚なる
一騎駈の進撃に臨む。宜なり、其の少からず我軍を悩ませること。

然るに此夜、暴風甚雨、敵艦岩崖に触れて多く覆没し、溺死するもの過当なり。
其中一艘志賀島に漂到し、将士哀を請ふ。即ち百余人
(八幡愚童記に拠る、一代要記六十人許に作る)を捕へて水城(ミヅキ)に斬る。
尋で敵艦悉く逃れ合浦に還れり。此役彼れの失ふところ、凡そ一万三千五百余人。
忽敦等捕獲するところの我童男女二百余人を高麗王及び公主に送れり。



38 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:35:16 ID:???
>>36
そうなの?
高麗人にしろ南宋人にしろ当時としてはわりと海に慣れ親しんだ民族だと思うんだが


39 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:41:43 ID:???
>>37
ちなみにこいつは明治時代に書かれたもの。
この定説はいったいどこから湧いてきたのか・・・


40 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:44:22 ID:???
日本の武士は一所懸命で土地を得るためなら親兄弟でも殺し合うのが普通だから
さすがの元寇も適わなかったんだよ


41 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:47:23 ID:???
法則発動の起源である


42 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 18:55:30 ID:???
てか教師は自分で研究しないからな。
未だにグリセロールをグリセリンと教えてるし。


43 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 19:13:05 ID:xVWWotER
>>38
海に適した船はほんのわずか。
ほとんどは、川を行き来していた船を集めてきただけという艦隊。
竜骨がないので波に弱い。


44 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 19:26:10 ID:???
時空を超えてきた亀船を使ったんだよ


45 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 21:50:16 ID:??? ?2BP(1455)
坂の上の雲は、確かに史実とずいぶん違うところがあるけど、あの1冊から
近代史に興味を持つ人が多いという意味で、すごくいい本だと思う。

素直にあの本は、「興奮できる」。
お前らだって史実を学びたくて司馬文学を読むわけじゃないだろうし。

近代戦史の史実を学びたいなら、近くの図書館に逝って「戦史叢書」を素読
すればいいと思うけど、絶対に最初の2~3ページで挫折すると思うぞw

「坂の上の雲」の最大の功績は、近代帝国主義の時代に、日本人の
祖先は何を思い、どのように必死に時代を生きたかっていう歴史を学ぶに
あたって、子孫にその動機付けを与えてくれることだと思う。

戦術や戦局の史実の誤りは、誤解を恐れずにいれば大したことじゃない。
多くの日本人に、近代史を学ぶという動機付けを与える強い力を持っているって
意味で、明らかに良書。

47 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 21:54:51 ID:???
>>43
キール無いんだ

でも清代のジャンク船は輸送力でヨーロッパの帆船を上回ってたという話をどっかで聞いたような気が・・・


48 :名無し三等兵:2007/11/10(土) 22:37:08 ID:C96GNUM8
>>47
そりゃあそこのメイン輸送は川を使っていたんだし。



52 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:06:57 ID:???
>>30
蒙古襲来絵詞は竹崎季長が恩賞の海東郷を与えられたかなりあとに作られてる
現在では恩賞を要求するために描かせたというのは根拠がなくなってる
確かに絵詞には安達泰盛邸をたずねる場面はあるが…



53 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:11:31 ID:22N9q06o
元軍は台風で沈んだんじゃなくて、ボロ負けして撤退しただけ。


54 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:16:10 ID:???
>>7
つ攻撃は最大の防御


55 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:16:47 ID:4viijqT2
撤退中に台風にあって全滅


56 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 00:51:39 ID:???
勝手に上陸すると出入国管理法違反で福岡県警にタイーホ。入国管理局に引き渡される。
難民認定が出る事を期待して市民団体の支援を受けつつ沖合いで待機


57 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 06:19:57 ID:???
>>39
鎌倉時代の武士が一騎打ち戦法で戦っていたというのは、「八幡愚童訓」という八幡信仰布教のための
宗教書が唯一の根拠となってる。
でも、その「八幡愚童訓」は実は後世に改編された物で、オリジナルにはそんなこと書いて無い。
戦後の元冦研究はインチキだから、そのことを内緒にして改編された方を資料として使い続けてるけどね。
唯一の根拠の「八幡愚童訓」に資料価値が無い以上、鎌倉武士が一騎打ち戦法で戦っていたなんてことを
裏付ける資料は存在しないっていうことになるよな。
実際に元冦の戦闘に参加した武士の残した資料である「蒙古襲来絵詞」では、武士は集団戦法で戦って元軍を蹴散らしてるし。


59 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:10:52 ID:Tcj7tTRg
一騎打ち戦法みたいな奇麗事として扇を持ち出し、舞いまで踊った平家の連中を
那須与一が「ふざけんなボケ」って射抜き殺して源平の合戦が始まったのに、
その末裔の鎌倉幕府が一騎打ち戦法なんか取るはずがないだろう。常考。


60 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:30:31 ID:07Qx1UcN
元は馬鹿チョンに船を作らせたり
河川運行用の平底船を持ってきた
しかも元は内陸部の騎馬民族だから
艦船はただの運搬目的としか考えてなかった
そのあたりが玄界灘の荒波にやられた要因だろうな


61 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:39:44 ID:???
>>1
チョソに船作らせて手抜きされたからだろ。


62 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:50:20 ID:???
高麗が自分たちも乗る船に手抜きする訳がない。
元軍は文永の役も弘安の役も普通に戦って負けただけ。



63 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:50:27 ID:???
ttp://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm

件の有名な場面の全体図。
当時の武士だけでなく元軍側の装備や戦法も見れる貴重な一枚。
季長に向かって矢を放つ手前の三人の蒙古兵は後世の加筆。
画面左は負傷して退却する蒙古兵と、麁原(そはら)に陣取る蒙古軍の本隊。
画面右は、季長の旗指(はたさし)・資安(「季長旗指、三郎二郎資安」)と、
季長を救援するため駆けつけた白石通泰(しらいし・みちやす)の軍勢
(「白石六郎道泰、其勢百余騎、後陣よりかく」)。

【解説】
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。武房はすでに敵と戦い,首二つを薙刀に貫いて引き上げてくる途中であった。
それを見た季長は,いっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み,本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は,
馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
武勲をあせり馳せ向かう季長に対して藤源太資光は味方を待って合戦に臨むよう忠告したが、
季長は先に功績を挙げることが肝要と突進していった。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
まず、旗指が馬を射られて跳ね落とされた。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻めてきたため、敵は退却を始めた。
こうして、季長は一命をとりとめただけではなく、
互いに勲功の証人となることを誓い合ったのであった。
さらに敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。


64 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:55:18 ID:???
解説を見る限りじゃー
竹崎季長はけっこうな猪武者だったようです。
後から来る味方待たずに突撃してるし
弘安のときも頼み込んで他の御家人の船に乗せてもらって
出撃してるし


65 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 14:55:38 ID:07Qx1UcN
>>62 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E7.A5.9E.E9.A2.A8

敗因はさまざまに語られるが、上記のとおり重複する点も含めて
日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。
遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し
連戦連勝を重ねてきたお得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。
また、暴風雨によって多くの船がもろくも沈んだ理由として
船を服属させた高麗人や越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。
彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり
突貫工事的に手抜きによって建造されていた。
また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため
士気が低かったと思われる。江南軍のほとんどが嘗ての南宋の兵であり
放っておけば社会不安の要因となる彼らを厄介払いする目的もあったと言われる。
(それを裏付けるように、モンゴルの司令官たちが乗った船は一隻も沈んでおらず
江南軍に従軍した兵士達の墓も旧南宋の領内では確認されていない。)




66 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 15:43:46 ID:???
>>65
>日本軍が元軍の上陸前に船や陸上から攻撃を与えたことも要因の一つである。
>遊牧民族であるモンゴル人は船上の戦法を心得ておらず、モンゴル軍が有効に活用し
>連戦連勝を重ねてきたお得意の騎馬隊を上陸戦のため使うことができなかった。

元軍が船上の戦法を心得ておらずというのは嘘。
元軍は1271年の三別抄との海戦や、1279年の南宋の大艦隊との海戦に勝利している。
それから文永の役ではお得意の騎馬隊も鎌倉武士の集団戦法に負けてるしな。

>船を服属させた高麗人や越人(ベトナム人)に作らせたことにあるとされる。
>彼らはすでにモンゴル人支配の不満を募らせており、輸送船の造船は急務でもあり
>突貫工事的に手抜きによって建造されていた。


高麗人が自分たちも乗る船に手抜きをしたなどと書いた史料はない。
弘安の役でも高麗製の船に乗った部隊は、旧南宋製の船に乗った部隊より遥かに生存率が
高かった。
そもそも元冦は高麗側からフビライに要請して実現した侵略戦争であり、高麗に不満など
あるはずがない。



>(それを裏付けるように、モンゴルの司令官たちが乗った船は一隻も沈んでおらず
>江南軍に従軍した兵士達の墓も旧南宋の領内では確認されていない。)


これも嘘。
高麗史には文永の役の暴風で「官軍(つまり元兵)の溺死するもの多し」と書いてある。
それから、弘安の役でも副将の范文虎の乗っていた船が沈没し、漂流しているところを
救助されたという記述もある。
あと、元史の記述では、台風の後で日本に置き去りにされ処刑された兵士の中には、高麗兵や
女真兵だけでなく、蒙古兵も含まれている。

最後に、江南軍に従軍した張成という人物の墓が発見されているぞ。



67 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 16:47:14 ID:oAd9eAKN
>>66
結局のところ蒙古は船戦対策だってそれなりにして、配下の高麗、漢人、旧南宋兵も先頭意欲満々。
船だってぼろいもんではなくしっかりしたもの作らせた。
世界史上空前の大帝国を作った民族、教科書や学校教師の教えのような軍事音痴な民族だったらこれ自体が不可能。

しかし鎌倉武士は強かった。鎌倉幕府も馬鹿ではなかった。鎌倉武士の武器も優秀だった。

合理的に戦い戦闘で勝利した。
それが元寇です。


69 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 16:57:34 ID:???
そもそも、「また、兵士も占領した高麗人や漢民族を徴用した多民族軍であったため士気が低かったと思われる。」って何さ?
モンゴル軍の侵略戦争なんて全部「占領した民族を徴用した多民族軍」だろーが・・・


71 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 17:32:12 ID:???
2回目は防御固めてたから良かったけど
1回目のときに大群で来られなくて良かったな



73 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 20:59:35 ID:???
元に率いられた高麗軍に上陸されて蹂躙され尽くした能古島、糸島半島先端の西ノ浦あたりは
今や特アからの密入国が頻繁にある場所です、よく巡視船「はかた」や「あそ」「みずき」などが警戒しています




74 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:04:15 ID:3jV+gcKc
中国が作った、対モンゴル用要塞、万里の頂上は、容易にモンゴル軍に越えられたが。
日本軍が対モンゴル軍用として海岸線に築いた、石塁は越えられなかった。


75 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:18:25 ID:???
>>73

あそって雲龍型空母阿蘇を連想させるなwwwwwwwwwww



76 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:26:38 ID:???
>>62
急な計画だったから造船が間に合わずに、川の運搬船をいっぱい集めたんだよ。
しかも作った船さえ>>65のありさまw



77 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 21:29:25 ID:???
>>67
いや、あれだけの大船団を作るには時間があまりにも足りなかったんだよ。
だから川の船を持ってきた。

79 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 22:50:26 ID:???
中世の東シナ海を通しての日本と宋/元/明との貿易って相当盛んだったと思うんだが、
当時の中国人に外航に適する船を作る技術がなかったとは思えんのだが

むしろ元の命令で短期間に突貫工事で何千隻も作った粗悪な船だったからあっさり沈んだんじゃないの?


81 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:00:30 ID:???
>>75
鋭いシェイプの「はかた」が一番好きですが
「あそ」と「みずき」は前部に載せた機銃が頼もしいですね、この2隻は遠くから識別するのが少し難しいです
高麗から押し寄せた軍船で埋め尽くされたという今津湾では巡視艇「とびうめ」もよく警戒しています


82 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:00:55 ID:???
>>78
むしろあえて軍板でやるからには軍事的な考察をするのがよろしいかと

元軍は海岸付近ではわりと優勢に戦って博多を侵すことが出来たのに
水城の先(つまり筑紫山地以南)には侵攻出来なかったんだよな
俺が思うに、今北九州に中国なり韓国が攻めてきても意外と似たような結果になるような気がするんだよな
海岸線付近では艦砲と陸揚げした砲兵に阻まれて機械化の進んでいない第4師団が橋頭堡を叩くのは難しいだろうが、
かつて水城と大野城・基肄城のあったラインで陣地による抵抗を試みればそれ以上南に行くのは難しいだろう
それでも敵は元軍よりはまともな準備をしてくるだろうからおれだけで帰ったりはしないだろうが、
彼らにお引き取り願うには富士教か7師がくるのを待てばいいかと

ごめんやっぱ他スレでやったほうがいいかも


83 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:06:12 ID:???
中国、韓国あたりが九州に侵攻してくる場合は
まず春日の駐屯地付近にミサイルによる波状攻撃を仕掛けてきそうな気もしますね


84 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:22:56 ID:???
まあ波状攻撃をするほど機体とミサイルの余裕があるかどうかは分からんが、
航空攻撃が先に行われるのは間違いないだろうな


85 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:44:33 ID:???
>>84
全国各地での市民?による反戦デモの方が先だろ。



86 :名無し三等兵:2007/11/11(日) 23:50:38 ID:???
最近の傾向だと10人以下の寂しいデモしか起きないと思うが。


87 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 05:04:42 ID:???
攻めて来られて反戦デモやってたら
さすがに白い目で見られるよな



89 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 07:42:03 ID:???
>>76-77
高麗製の船は弘安の役の台風でも無事だった。
手抜きどころか精魂込めた立派な仕事。
元艦隊は外洋用の大型船300艘の他に、上陸や給水などに使用する使い捨ての小舟600艘も装備していたから、発見された船はそれだろうな。



90 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 07:55:03 ID:???
じゃあ明らかに人減らしの旧宋兵がそうやって・・・

南無


91 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 11:40:21 ID:wwaxhfwW
>>89
中国の川は広大だぞ。
川の船だからといって、小さいものではない。



92 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 11:46:01 ID:???
そういうレベルじゃないだろ海と川の違いは


93 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 12:49:28 ID:???
>>92
おまえは対岸が見えないくらいの川を知らないのか?
当時の外洋船の大きさを過大視していないか?



94 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 12:55:00 ID:???
どうしても「日本が遅れていた」「日本が弱かった」としたいのだろうな。

左巻きの史観だと、戦前、そして封建時代の日本が世界的に優れてると、
国民主権の時代、そしてその後(?)の社会主義の価値が相対的に無くなる。
左へ行けば行く程、素晴らしい世界になるんだよ♪としたい訳だ。

更に中朝は「日本が優れているのは我々のお陰」と言いたい。
「日本が独自に優れた国になった」とは死んでも認めたくない。

ここら辺の事情で歴史教育はバイアスがかかる傾向がある。


少なくとも後半は日本の国土で元軍と真っ向から戦えていたのは事実であり、
元軍の敗北の最大の原因であった「兵站」がしっかりしていたとしても、
日本全土が征服されるという事態にはならなかったであろう。

大陸型の機動戦法を島国の日本が知らなかったのは必要が無かったからで、
国として全てが大きく劣っていた訳ではない。わずか300年後には、
逆に朝鮮へ出兵し、明王朝滅亡の遠因となった程の大戦争を戦っている。
たった300年で、それ程に差がつくとは考えにくいがどうか?

ついでに「元寇」は「高麗」が元の皇帝に強要されたのではなく、
高麗が積極的に日本侵略を企図して動いたのだが
教科書にはあるまい。


95 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 13:01:50 ID:???
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm
これの
後世加筆修正した部分のみ抜き出して教科書に載せてるくらいだもんな



96 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 13:52:43 ID:???
新羅の時代から九州北岸部はたびたび半島からの侵入者に蹂躙されてましたからね
いきなりやってきては略奪をはたらき村を焼き女を襲い住民を虐殺する
こういう非道を小規模ながら何度も繰り返してきたことさえ教科書には載りません
元寇や刀伊の入寇と呼ばれているものはそれが大規模に行われたものですが
住民がこういうのに慣れており比較的混乱も少なく武士団に協力できたのも勝因のひとつではないでしょうか
博多の旧くからの名家や生粋の福岡人は伝統的にいわゆる嫌韓ですが、それはやはり理由のあることです
とくに自分たちのつくった街を焼き払われた宋人の怒りはかなりのものだったといいます
自分たちにへこへこそていたはずの高麗人が元をバックにつけるやいなや高圧的に侵略し街を焼いたわけですからね




97 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 14:12:33 ID:???
>>94
戦前、戦中だと「日本は神の国」だと教えるために
元寇は神風で勝った、というのが定説になってたみたいね。

元寇はその時々の体制や国家のイデオロギーに応じて
さまざまにわい曲されて歴史教育に利用されてきた。

>どうしても「日本が遅れていた」「日本が弱かった」としたいのだろうな。
こうした史観は>>37の文献のように早くも明治時代から出現してたようです。
西欧の進んだ技術、思想を取り入れるにあたってこうした考えが
むしろ逆に必要とされていたのかも・・・
思った以上に根の深い話だ。


98 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 15:52:38 ID:???
>>97
元寇は神風で勝った、なんて説は、戦前は定説じゃなかった。
>>37みたいのは少数意見。
白鳥庫吉博士が書いた昭和天皇のための歴史教科書では、文永の役は武士が奮戦して
元軍を撃退した事になっていて、「神風」なんて記述はまったくない。


昭和天皇の歴史教科書 国史(口語訳) 出雲井晶・訳 講談社
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に
迫りました。九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに
退却しました。文永末年のことでしたので、これを文永の役といいます。』


文永の役の勝因が神風という説が一般化したのは戦後になってから。

99 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 16:27:44 ID:???
>>93
海と川は水のもつ力学からしてちがうんよ
波とかそういうのがいろいろ面倒な負荷を船に与えるらしい
俺も専門家ではないのでさわりの情報だが同じ大きさの船が作れても当時の川用の船は海ではもたないとのこと



100 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 16:52:05 ID:???
>>93
大きさの問題じゃなくて川と海じゃ
船の作り方が全然違う



101 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 16:53:04 ID:???
>>99
だから、造船が間に合わずに川用の船を利用したから、大半の船が海の藻屑となったわけよ。


102 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 17:01:07 ID:???
>>101
元艦隊全部に渡航能力が必要なわけじゃない。
川用の船は外洋航海中は渡航用の大型船に曳航したり収容すればいいだけ。
海の藻屑となったこととは関係ないよ。



103 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 17:11:37 ID:???
外洋航行への向き不向きを別にして
単純に船体のサイズで見れば
黄河とかのでかい河で使ってた船でも
外洋航行できそうなでかい船はあるよ。



104 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 17:37:57 ID:???
>>102
曳航って、海の波に耐えられない作りなのに何の意味があるんだよ。
収容ったって、おまえは川の船のでかさを知らんのか?



105 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 17:38:37 ID:???
>>103
竜骨がないと、でかい船は海の航海には耐えられない。



106 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 18:08:20 ID:3Hds+/0B
>>104
元艦隊には限定された目的のための小型船が多数含まれていたんだよ。
川用の船ってこれだろ。
だから最初から外洋航海能力は必要無いの。



107 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 18:11:38 ID:???
>>97 >>98

イングランドがイスパニア無敵艦隊「アルマダ」を
破った時に、「神」が風向きをイングランド有利にした、
従って、イングランドは「神」によって正義と認められたんだ!
そんな戦勝記念メダルが作られた事があります。

「神風」も「日本=正義」としたい、そんな流れでしょうか。
戦時中に士気高揚のために一気に流布された考え方のようですね。

明治維新以前の日本を遅れた暗黒時代と考える史観が見直されて
来ていますが、少なくとも秀吉の朝鮮出兵の頃の日本の国力は
欧米列強・中国と比較しても対等程度であった考えられます。

室町期に日本の国力が相当な勢いで発展したのは間違いないのですが、
これも明治維新と同じで基盤が無ければ出来ない事です。

「白村江の戦い」の時代でさえ、既に5万超の兵力で
遠征して唐と戦える国力があったわけですから、
鎌倉時代だけ日本の国力が弱まっていたとは考え難いです。


108 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 18:50:57 ID:???
>>1
要するに「日教組」「サヨ教師」を叩けばいいんだろ


109 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 18:59:33 ID:???
学校によっては、アイヌはモンゴルに勝ったとか教えてる所もあるみたいだな。
実際には負けた記録しかないのに。
史料には勝ったと書いてある鎌倉武士は負けたと教え、アイヌではその逆をやる・・・
歴史教育で勝敗を決めるのは、史料ではなくイデオロギー。



110 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 19:06:35 ID:???
秀吉の朝鮮出兵は小学校の社会の教科書に大きく書いてあるのに、
応永の外寇や刀伊の入寇は高校の文系選択者のみが使う日本史Bの教科書に小さく書いてあるだけのは何故だろう



111 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 19:09:22 ID:???
本来こういう国難こそ歴史で教えとくものだと思うがな


112 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 19:31:29 ID:???
私が中学生のときの若い社会教師は
「イムジンウェラン」という言葉を私たちに暗記するように言い
試験のときもそう書かないと正解にしないと明言していました
小学生のときの元軍国少年の先生は「朝鮮征伐」という言葉を使っていました
「唐入り」という言葉を知ったのは大人になってからです

113 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 21:22:13 ID:???
>>106
ナショジオかなんかの番組で沈んだ船に竜骨がなかったというのをやってたよ。
かなり大きい船だったよ。


114 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 21:26:58 ID:???
>>105
遣唐使や遣隋使の船って歴史の教科書でだと
平底で竜骨が無い形をしてたような記憶があるんですけれど


116 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:11:35 ID:???
700年前のネタで盛り上がれるなんて軍オタってすごいな


117 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:16:36 ID:???
>>113
ジャンクって大型のものでも竜骨はないよ。
でも外洋ではまったく問題無し。

118 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:28:58 ID:???
>>117
対馬海峡は波が荒いときくが、そんなとこでも平気なのかね?
川から持っていった船はそういうのとは構造も違うんじゃないか?

119 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:30:09 ID:ri0PYmvD
まず鎌倉時代の日本は世界の中でも大国だったという認識持つべき。
中世のヨーロッパでの戦争は数千程度だけど、日本は源平、奥州藤原氏など万単位の軍隊動員できる政権がいくつもあり、
一応東国のもと統一された承久の乱で鎌倉幕府は10万以上動員している。
こんな国は当時それほどない。
そして鎌倉時代は米の二毛作がほぼ全国に普及したのに中国では南方でやっと始まったばかり。
それから時代は少し下るけど日明貿易では日本の日本刀や鎧などは主要輸出品。
ようするに鎌倉時代の日本は大国で農業先進国で工業先進国でもあった。

明治維新までずっと遅れていたなんて歴史観をまず拭い去るべき。




120 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:34:45 ID:???
まぁ中世欧州なんて辺境のド田舎もいいとこだしなぁ


121 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:41:39 ID:???
>>118
川から持っていった船とか言われてるのは、もともと雑事用の小型船だろ。
そんなの外洋航海能力なんか無くて当然。



122 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:46:50 ID:???
>>121
兵士や大砲運ぶんだから川のでかい船を流用したんだろ。
ナショジオの番組でやっていたのはそれなりにでかい船だったぞ。


123 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:54:33 ID:???
>>119
え、なんで先進国なのに室町将軍は日本国王臣源道義なんて名乗って明に臣称してんの?

124 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 22:56:51 ID:???
>>123
つ 天皇


126 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 23:01:46 ID:???
室町になってから明のポチに成り下がったわけね・・・


127 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 23:06:03 ID:???
日本国王臣ってのは日本の国王である天皇陛下の臣ってことじゃないの?


128 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 23:22:53 ID:7K/9REQ8
そのとおり


129 :名無し三等兵:2007/11/12(月) 23:49:00 ID:???
明の使者が携えてきた国書には、次の一文があった。

「爾日本国王源道義」

即ち、日本を明の属国とし、義満をその国王として認めてやる。という事である。
 それに対して義満は、属国視を立腹するどころか、逆に易々諾々と受け入れ、明皇帝への国書でも、
「日本国王臣源表す」
と記すありさまであった。明皇帝の臣である日本国王源(義満)が申し上げます、という意味である。



130 :東条大将:2007/11/12(月) 23:51:57 ID:???
↑たわけっ! それは日本国王・臣源道義と読むのだ。 
大明国の臣下である日本の王(つまり天皇を否定している)である源(足利氏は源氏)道義(義満の法名)と言う意味だ!
売国奴足利義満が、日明貿易の利益を得んが為に臣礼をとったのだ。
ああ、嘆かわしい。 はるか昔の聖徳太子以来、我が国は決して大陸に臣下の礼をとった事は無かったのに...義満のアホが。


134 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 01:21:29 ID:???
>>122
鄭和の艦隊とかにも川用の船を改修したのが含まれていたよ


135 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 02:34:46 ID:???
>>122
当時はまだ大砲はないよ、てつはうという爆竹の大きいのがあるだけ


136 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 08:39:11 ID:aXLFWNZD
>>123
経済的な利益から名を捨て実を取っただけ。
実際その後の日明貿易では表向き明に臣下の例を取っていたけど
細川氏、大内氏などはトラブルが起きたら中国で乱暴狼藉を働き
明の役人殺したりなどといろいろやってる。
心底明を尊敬なんかしてない。

こんなとき威力を発揮したのが日本刀。
当時の中国の文献に「倭刀は剣で受けてはならない。こちらの刀が折られる」
といったものがあるが日本刀は中国兵の刀を真っ二つにたたき折ってしまうくらいの精度だった。


138 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 11:48:38 ID:???
『懲録』
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。
全くその勢いには抗すべき道がなかった。




139 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 13:22:12 ID:???
>>119

君こそ西欧中心史観におかされとるぞ。
当時の西欧はド田舎だったんだ。

せめてイスラム教圏や、中国などの先進地域と比べろよ。

>鎌倉時代の日本は大国で農業先進国で工業先進国でもあった。

そこまですごくないぞ。地域大国かもしれんがなw
工業先進国ってのも大嘘だ。中国の宋って鉄の生産量(質は別として)は、
産業革命がおこるまでイギリスの鉄の生産量をぬけなかったくらい生産してた。


140 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 14:25:13 ID:???
朝鮮やベトナムとかとも違って強力な外圧がなかったから
割と好き放題できたのも大きいよね。
倭冦やバイキングみたいなのもそれほど来なかった。
元寇の時は北条氏による中央集権もだんだん進んできてたし
飢饉、内乱といった国情不安もあまりなかった。


141 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 15:05:30 ID:???
>>139
下三行がちょっとよく意味わかんないんだけど、日本と宋とイギリスの生産量が
それぞれどうだって?


142 :ちと調べてみた:2007/11/13(火) 19:43:05 ID:???
手もとの本、
「大国の興亡」(ポールケネディ著 草思社)と
「概説西洋経済発達史」(荒井政治、竹岡敬温編 有斐閣選書)によれば
宋の時代、11世紀末頃の中国の鉄鋼総生産高が
だいたい十二万五千トン(主な用途は軍事)で
英国がこの水準を超えたのは1790年代
日本がこの水準を超えたのが1910年代となってます。
ただし
宋のは何のデータをもとにして算出された値なのかいまいち不明瞭だった、
という点は考慮に入れつつ参考にして下さい。


143 :東条大将:2007/11/13(火) 20:26:31 ID:???
足利氏も細川氏も大内氏も心底臣従する気がなく、実利を重んじた見せ掛けだけの臣従である事は分かっている。
そして明の皇帝もそれを知っていて朝貢貿易を許している。
明としては形だけでも臣下の礼を取らせれば良い訳だろ。
がっ!しかし!それでは聖徳太子に申し訳無いではないか?


144 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 20:57:13 ID:???
室町時代に明に輸出された日本の主な物品は「刀」
一説によれば最も盛んな頃は年間三万七千本も輸出されとったらしい
そして明の軍人や支配階級だけではなく個人にも
大量の日本刀が行き渡ることになる。
これらの大量の武器は倭冦が猛威を振るう一因となり
タタール,後金の跳梁、秀吉の朝鮮出兵等と並んで明の軍事財政圧迫と
衰退を招く一大要因を成した。
秀吉の刀狩りに代表される人民の非武装化って実は大事な事だったんだネー。
そして明は日本の朝貢は認めない方が長生きできたかもしれない




145 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 21:06:17 ID:wLIfABEa
>>139
例が西欧では悪いな。
チムール帝国の皇帝チムールが明の大遠征に率いたのが20万。
オスマントルコのスレイマン大帝のウィーン包囲の親征も20万。
中世においては大帝国でもこんな感じ。
だから鎌倉幕府の承久の乱の10万以上は中世では相当なもの。
しかも鎌倉幕府はこの承久の乱後初めて西日本を実効支配できるようになった。
南宋を滅ぼして旧南宋兵中心に編成した弘安の役でも総勢14万だから、
日本には兵力は充分対抗できた。
工業先進国は確かに表現が悪いけど工業技術は進んでいた面はあった。




146 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 21:12:46 ID:???
今時チムールって・・・
ティムールだろ、常識的に考えて・・・


147 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 21:16:02 ID:???
軍板は平均年齢高いからな


148 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 21:20:38 ID:???
同時代だと、守勢側でモンゴルと戦ったホラズムが40万てところか



150 :名無し三等兵:2007/11/13(火) 21:27:51 ID:???
>>148
ホラズムの方は国王が軍に信をおかず
各地の都市や拠点に分散配置されていました。
そのためホラズム攻略戦は野戦よりも
都市攻囲戦がメインだったそうで

159 :名無し三等兵:2007/11/14(水) 16:38:08 ID:???
「動員可能な兵力」と「国力」が問題になってますが、
この時代は古代王政が崩壊して絶対王政が確立する前で、
中央政権が弱体で地方の封建領主が割拠する形態の国が多かった。
従って一概に「動員可能な兵力」=「国力」とは言えないかと。

牧畜を基盤とする遊牧国家モンゴルの生産性が高かったとは言えず、
むしろ北方遊牧民族は南方の豊かさを目指して侵入を繰り返して来ました。
定住しないが故に技術力や文化も農耕国家と比べると発展し難いです。


160 :名無し三等兵:2007/11/14(水) 16:50:21 ID:???
「統一の度合」と「常備軍」も国の強さですので、
技術や文化、生産性が低くても強国と成り得る訳ですね。

左巻きが「日本は弱かった!」と言って来たら、
「統一国家権力が弱いと、国も弱くなって戦争で負ける!」と、
こう返してやるのが一番良いわけですね。

「鎌倉武士」達を上手く一つにまとめていくと、
明と朝鮮を相手に戦える秀吉軍のような強さになり、
更にもっと強力に「国民国家」としてまとめていくと、
米英中を相手に真っ向から戦える大日本帝国が出来る理屈。


161 :名無し三等兵:2007/11/14(水) 17:22:06 ID:???
ただ問題は、傾向として「強力な中央集権国家」をやると、
「富」が強烈に吸い上げられてしまうために「個」が貧しくなる。
崩壊したソ連然り北朝鮮然りで、全体として成長性が阻害される。
(全部税金かと思ったら、そりゃ皆やる気無くなる罠)

「平和が一番」ってのは確かにその通り。

だが逆に「豊かさ」を求めてまとまれなかった為に、
カルタゴや宋は滅亡し、オランダは弱体化し、
富裕を誇った都市国家群も征服され飲込まれた。


結局「適切な抑止力が必要である」という軍事板的な結論になったw


168 :名無し三等兵:2007/11/15(木) 00:51:00 ID:???
定住農耕民族と遊牧騎馬民族では国力と総兵力の関係がいくぶん異なります。
農耕民族の場合兵力を増やし、遠征を繰り返すほどその影響は
軍事費の増大、人民への増税という形で国政に跳ね返ってくるため
総人口に対する兵士の比率がある一定をこえると
国力がどんどん低下していきます。

一方騎馬民族はその人口や生産力において農耕民族に
圧倒的に劣りますが、
乗馬、騎射、家畜の追い込み等といった戦争にも容易に転用できる技能が
生存のために必須のものとなっている、
定住民族や他の騎馬民族に対する戦争。略奪という行為自体が
生活の一部を成しているため平時、戦時の境目が無いに等しい、

といった要因により総人口に対する動員可能な兵力の割合を
農耕民族より遥かに高く設定でき、遠征の連発も
国力に悪影響を及ぼしにくいという特徴があります。


170 :名無し三等兵:2007/11/17(土) 00:06:11 ID:???
玉川大学の元寇サイトもひどいな


171 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 01:56:55 ID:???
>1
元軍の作戦は、

・朝鮮半島方面から別動隊(東路軍)が九州北部に上陸して、日本軍を引き付ける。
・中国本土から出発した本隊(江南軍)が、沖縄経由でぐるっと迂回して日本軍の背後に上陸し、
 日本軍を包囲・殲滅する。

というものだった。


しかし、事前の準備不足や、元軍の実態が旧高麗軍、旧南宋軍などを寄せ集めた多国籍軍
だったことによる指揮統制の不備、10万人を超える大軍に対して海路で補給を維持することが
当時の航海・造船技術では困難だったことなどから、作戦は失敗。
後退した日本軍との間で、塹壕戦になってしまった。


塹壕にこもって弾幕射撃で応戦する日本軍の防衛線は、いかに元軍の得意とする騎兵隊の
突撃であっても突破することはできなかった。当時は、まだ戦車や装甲車はない。
まったくの消耗戦が数ヶ月続き、結局台風シーズンになって海路が荒れて補給切れ。
元軍はやむなく撤収した。


172 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 03:36:17 ID:???
>10万人を超える大軍に対して海路で補給を維持することが
当時の航海・造船技術では困難だった

兵糧に関しては船団の中に必要な分だけ積んで来る、て感じだったな。
弘安の時なら兵糧を3か月分は搭載してただろう。
そもそも「海路による輸送で補給を維持する」という発想は当時あったんだろか。

>塹壕にこもって弾幕射撃で応戦する日本軍の防衛線は、
いかに元軍の得意とする騎兵隊の突撃であっても
突破することはできなかった。

野戦での元軍側の戦い方も歩兵による弓矢の射撃を中心としたものだったよ。
日本側と同じく大きな盾をたくさん並べて置き、矢で弾幕を張る。
資料からすると彼等は騎兵隊も同伴してきてたようだけど
元軍の騎兵部隊の主力は専ら弓矢の射撃で戦う軽騎兵で、
敵に突撃を行うような重装備の騎兵はあまり数多くは居なかった。

ただ・・・



173 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 03:56:57 ID:???
文永の時に元軍が持ってきた軍隊がどういうモノだったかは
もっと慎重に考える必要があるな。
同じ元軍といってもモンゴル軍本体と、朝鮮で戦ってた部隊、
南宋で戦ってた部隊とかでは編成が異なるはずだ。

http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/hp_db_f/moukoshurai/e04.htm

この図の一番左側に陣を張る元軍が描かれている.
この兵士たちを装備によって分類すると・・・
(1)弓矢を装備した歩兵
(2)槍を装備した歩兵
(3)銅鑼を持った歩兵
(4)弓矢を装備した騎兵
(5)槍を装備した騎兵
これくらいに分けられる。

(一番右側の3人は後世の加筆である、という点に注意!)
図には3頭しか元側の騎兵が書かれとらんので歩騎の比率とかは分からんけど
概ね弓矢、槍を装備した歩兵が主力で
それに同じく弓矢、槍装備の少数の騎兵がつく、て感じだ。
まあ少なくともこの図をちゃんと見てりゃ
「元軍の戦法は騎兵突撃」なんて考えは出てこないだろ

174 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 05:15:42 ID:???
>>171
モンゴル軍の征服戦争は全部「寄せ集めた多国籍軍」によっておこなわれてる。
「寄せ集めた多国籍軍」だから「指揮統制の不備」があったなどと言い出したら、
モンゴル軍はモンゴル高原から一歩も外に出ることは出来なかった。

そもそも10万以上の大軍の長距離侵攻に船舶以外の方法で補給を行うことは、
当時の技術では不可能。
元軍の艦隊は数カ月分の食料を輸送する能力があり、現地調達に頼るしか無い
陸上侵攻に比べたら遥かに有利。

弘安の役で日本軍は塹壕にこもって戦ったことなどない。
日本軍は志賀島に上陸した元軍を、自分たちの方から攻撃して撃破。
元軍が壱岐に後退すると追撃してこれも撃破。
更に鷹島、平戸へ逃亡し、塹壕にこもって応戦する元軍を攻め立てているうちに
台風が来たんだよ。

あと、元軍で撤収できたのはごく一部。
元軍のほとんどは日本軍によって殺された。



175 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 06:16:25 ID:???
>日本軍は志賀島に上陸した元軍を、自分たちの方から攻撃して撃破

撃破、ってのはちとニュアンスが違う気もする。
志賀島での戦闘は六月六日~十二日にかけて行われたんだけど
その間、日本と元軍双方の決戦はおこらず、
(というか志賀島は大軍の機動にも物資の揚陸にも地形的に適さない
http://www.kkc.co.jp/social/disaster/200503_fukuoka_eq/20050420/image/1e.jpg
志賀島東岸。このように山と岩場だらけで砂浜や平地は存在しないのだ)
この戦いは人員と物資をなんとか揚陸しようとする元軍と、
それを海と陸(当時の志賀島は干潮時だけ本土から徒歩で行けた)
からゲリラ的な襲撃を反復して妨害する日本軍、という図式で
行われた。
そして最終的に戦闘で1000人、疫病で3000人あまりを失った元軍は
上陸を諦め、東路軍との合流のため壱岐、さらに平戸まで退いていく。

経過を見ると「撃破」よりは「撃退」の方が適切なんじゃないかしら。



176 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 06:40:26 ID:???
>>175
高麗史にはこの戦闘について元軍が「敗績」したと書いてあるよ。
「敗績」ってのは「戦争で大敗する」って意味ね。



177 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 07:34:52 ID:???
>>176
別に元軍側は
この戦いでは負けてないとか、負けを認めてないとか
そういう事を言おうとしてるわけじゃないよ。
「撃破」だろうが「撃退」だろうが結局元軍側の負けにゃ変わりはないし。

ただ「攻撃して撃破」という表現が
どうも戦闘の様相とは剥離してるんじゃないか?と考えたんだ。
志賀島での戦いで元軍側が継戦能力を喪失するほどの
決定的な打撃を受けたのなら「撃破」でいいと思うけど
実際は損害に耐えかねて壱岐に退いた、ということで
戦闘力はまだ保持してたでしょ
(江南軍の増援が無けりゃこの時点で撤退してた可能性は大いにあるけど)



178 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 17:00:38 ID:???
>>175
当時の日本には上陸側が圧倒的に不利という戦訓が無かっただろうから、
今で言う一般的な「撃退」を、敵方の大敗北と記したとしても不思議はない。

数で言えば陸戦での大敗北に匹敵するだけの打撃を与えた、という意味に
解釈するのが自然ではないか。


179 :名無し三等兵:2007/11/18(日) 17:47:09 ID:???
>>178
いや、元軍側の史料である高麗史に「大敗北」と書いてあるんだよ。 それと、上陸側が圧倒的に不利だというなら、壱岐に退いた元軍に追い討ちかけ、
更に鷹島までの後退を余儀なくさせた日本軍は、上陸側の不利にもかかわらず
元軍に勝利したわけで、滅茶苦茶強かったってことになるよな。




180 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 02:43:02 ID:???
壱岐での戦いは上陸戦ではなく水上戦だ。
少弐経資の指揮のもと、
元軍の艦隊泊地に日本軍が櫓漕ぎの小舟で大挙して殴り込みをかけるという
倭冦を先取りしたような内容の戦闘だった。
この戦いで日本側が壱岐へ着上陸を行った、て話は聞かないから
元軍側が戦力を壱岐に揚げて無かったか
既に上陸してた元軍戦力は無視して船だけ襲ったんだろう。
この件に関してもっと詳しいこと知ってる人いたら教えて。

この戦いは六月二十九~七月二日まで続き、最終的にここも支えられなくなった
元軍は東路軍との合流のため平戸へ退いていく。



181 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 08:06:11 ID:???
そういえば壱岐に上陸した高麗軍はこのとき徹底的な殺戮を行い、生存した島民は47名しかいなかったそうですね


182 :名無し三等兵:2007/11/19(月) 15:41:40 ID:r2aijxIo
このとき?
それって博多湾に行く途中、最初に壱岐に上陸したときでないの?>殺戮



185 :名無し三等兵:2007/11/20(火) 18:17:36 ID:???
最初から兵站が続かない時点で蒙古軍の敗北はほぼ決まっていた。

仮に今、日本がどこかへ上陸したとしても、
補給も補充も一切無しでどれだけ戦えるだろうか?

蒙古帝国が強かったのは遊牧民族であるために、
「遠征」しても兵站が維持されるからだ。

ハマチか何かを養殖しながら船上生活する民族だったら
ひょっとしたら日本も征服されていたかもしれない。



186 :名無し三等兵:2007/11/20(火) 18:49:02 ID:???
現地調達ですむと考えてたんだろ
アジアの無人の大草原じゃなくその辺中に人が住んでるとこ侵略するんだから



187 :名無し三等兵:2007/11/20(火) 20:26:28 ID:???
兵站物資の大部分が糧食だからな。
それでも日本側が焦土戦術取ってれば戦わずして楽勝できたろうが、
当時の封建社会ではそれやるの絶対無理だし。

臣下といえど実質は地方豪族なのだから現地の意向は無視できん。
残さず根こそぎ持っていくのは侵略側だけに許される自由なんだな。



188 :名無し三等兵:2007/11/20(火) 20:49:08 ID:???
昔の戦いは補給の概念がまずちがうからなー

モンゴルみたいな遊牧騎馬民族はまず「奪うために戦う」
自分達が飢えれば他の騎馬民族から羊を奪い、
農耕定住民族からはお宝、穀物、人(奴隷)と何でも奪う。
略奪そのものが彼等の戦争の目的であり生活の一部でもあった。
そして遊牧民族である彼等は
自分達の食糧であり財産でもある家畜たちを軍事遠征でも常に同伴しており、
干し肉やチーズといった形でそこからダイレクトに補給を受けていた。
それ故彼等の軍隊はケタ違いに広い行動範囲と高い機動力を得られたんだ。
だから現代の軍隊で言うとこの補給の概念がどこまであったかはちと怪しい。

ちなみにこいつが悪名高い牟田口の「ジンギスカン作戦」の元ネタになった。

漢人のような定住民族型の軍隊だと現代の軍隊の如き補給の概念が存在し、
馬匹による策源地からのピストン輸送で兵站を支えるシステムになる。
モンゴルも漢人を兵士として使い出すようになってからは
部分的にこちらのシステムに切り替えていったんじゃないかなあ

元寇の場合だと当座は船に積んだ兵糧を使い、占領地域ができた後は
そこでの現地調達でまかなう、という腹づもりだったんじゃないかと思う。
作戦の規模と期間を考えるとそこらへんの見積もりが
ちと甘かったんじゃないか? とは思うけど。



194 :名無し三等兵:2007/11/21(水) 03:30:42 ID:???
元寇ってチョソ語のWikipediaに載ってないな
チョソが日本に侵略した歴史を隠蔽してるのか



195 :名無し三等兵:2007/11/21(水) 09:04:13 ID:???
そうでしょうね、彼らにとって自分たちが日本を侵略しようとして失敗したことなどは
消さねばならぬ歴史なのでしょう
九州北部沿岸は何度となく朝鮮人による侵攻を受けています、そのたびに多くの九州人が虐殺、拉致されました
刀伊の入寇なども朝鮮人によるものではないでしょうか
上陸した賊どもは犬を襲って喰っていた、という記録もあります


196 :名無し三等兵:2007/11/23(金) 15:36:48 ID:???

94 :日本@名無史さん:2007/11/14(水) 11:04:59
>>92
威力偵察はありえない
恫喝というのはざっくりしすぎだがそっちのほうがまだ該当する
大宰府落せばそれで日本がしっぽ振って朝貢すると思ってたんだろう

ようは自分らに有利な条件で制限なく貿易させろ邪魔すんなよということだよ
なのでモンゴルの軍事力を見せ付けるというのが目的といえば目的
返り討ちにされて全く目的を果たせなかったが


国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!




197 :名無し三等兵:2007/11/23(金) 19:37:29 ID:???
フビライはDQNだったのか


198 :名無し三等兵:2007/11/23(金) 19:56:00 ID:???
犠牲出してまで占領するほどじゃないってことでしょう。

農業生産なら大陸の南方のほうがおいしいし

民族は従わなそうだし。目ぼしい資源(蚕や生糸や木材なら、大陸で作っているし)なさそうだし。

元の政治権力の鼓舞したいけど、
裏目に出て元の中央で反乱起こされてもたまらないし。

元の視点から辺境にあたる島々に時間兵力、軍備取られて
元の中央や陸続きの南であるベトナムや北であるロシアで反乱起こされたほうが損。

植民なら他にも候補(インドシナ半島、中央アジア、シベリア、ロシア)があるから、採算割れの日本から撤退。

宣伝したい宗教勢力や政治勢力が、
寺社「神風だ」
幕府「幕府は強い。~以下、政治営業発言~~」。

ただまぁ、産業革命以前の木造船&風任せ・海流任せで海渡るのは、別に元じゃなくても困難な作業。
平和な状態でも船が沈むし、病気は起きるし、んな状態で軍備まで回せといわれても、どこの人間でも厳しい。

199 :名無し三等兵:2007/11/23(金) 20:41:06 ID:???
>>198
白村江やら朝鮮征討で数万の軍を送った日本は最強ということで



200 :名無し三等兵:2007/11/23(金) 23:19:14 ID:???
白村江の戦いで大敗北

別に日本や元に限らず

産業革命以前の船舶で戦争するってかなり無理があるぞ。

帰国分の物資のことも考えつつだから、現場の兵隊が使う物資は更に限られてくるし。

むしろ、よく日本にたどり着けたなと思う。



201 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 00:28:57 ID:???
>>200
産業イングランドなんか征服されまくりだっただろ。
元寇の艦隊は3ヶ月分の物資が与えられていて、現場の兵隊が使う物資は豊富だった。
元軍は普通に日本軍よりも弱かったから負けただけ。
革命以前の船舶でだって渡海侵攻による征服なんか何度もおこなわれてる。



202 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 03:40:06 ID:???
>>201
イングランドと日本の気候風土や各種条件の違いを考慮せずに
同列に並べるのは危険だ。
イングランドにゃ台風来ねえしノルマンコンクエストの時は
英軍の主力は上陸したノルウェー軍と戦うためヨークにいたから
ノルマンディー公の軍は無傷で楽々と上陸できたんよ。

元寇レベルの大規模な渡海侵攻作戦が大変なのは
まず第一に船員とか船舶とか、陸戦で同規模の遠征を準備するのに比べて
大量の資本投入が必要になること。
船作るとこから始めると準備に年の単位で時間がかかるし
常備海軍はすげえ金食い虫だ。
元寇の場合はその船や船員を朝鮮側が手配してくれたことでだいぶ
実行へのハードルが下がったわけだけれど。




204 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 04:50:05 ID:???
>>202
文永の役では台風来なかったし、弘安の役でも台風が来たのは侵攻から2ヵ月後。
元からの使者も全員無事に対馬海峡を往復している。
それに比べて、ウィリアム征服王の艦隊は悪天候で一度海峡越えに失敗しているし、
ハロルド二世も海峡で難破した経験がある。
ノルマンコンクエストの方が、元寇よりも気候風土などの条件は厳しかったんだよ。

それにイングランドはノルマンコンクエスト以前にも海外からの侵攻で征服されてるだろ。
991年にはノルウェーのオラーフ・トリッグヴァサンが93隻の船団に兵1万数千を乗せて
エセックス海岸に上陸し、迎え撃ったエセックス伯ビルフトノースがモルドンの戦いで戦死。
1015年にもデンマークのクヌートの侵攻で征服されてる。

渡航侵攻の成否を決定するのは軍の強さ。
元軍はこの部分で武士に劣っていたから敗北した。

205 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 06:07:32 ID:???
>ノルマンコンクエストの方が、元寇よりも気候風土などの条件は厳しかったんだよ
天候の件は自分の不勉強でした。
>渡航侵攻の成否を決定するのは軍の強さ。
この点に関しては部分的に反論しときたい。
>迎え撃ったエセックス伯ビルフトノース
この時モルドンで襲撃を迎え撃った兵士は200人ぐらいだそうだ。
どーやって勝てっつうんじゃい。壱岐や対馬の戦闘と同レベルじゃないか。

この前後の時期のバイキングの攻撃は基本的に戦術的な奇襲が多い。
敵の防備の薄い部分に船で素早く戦力を集中させ、敵側がそれに
対応する前に目標を達成する、というのが基本的な戦い方で、
襲われる側が防備をがっちり固めていた場合はパリの戦いのようにこう着、
あるいは撃退されることも多かった。

元寇の場合、海軍自体が服従した国家から接収したもので元軍自体は典型的な陸軍。
その点でいわば全員が海兵のようなバイキングとは性質が異なる。
また、渡航侵攻のノウハウの蓄積もあまり多くはなされなかった。
この当時なら三別抄鎮定を初めとする朝鮮半島での戦闘くらいか。
そして元寇に参加した元軍側の将兵はこれほど長距離かつ大兵力での
渡航侵攻は初めてで、改めて遠征用の船を造らせるところから
準備を始めなければならなかった。
そして長期の渡洋侵攻による将兵の士気の磨耗や必要な兵力、兵糧の準備など
未経験である故に見積もりの甘い部分も多かった。

遠征に参加した兵自体は大元ウルスの精鋭も含んでいたし文永では当初
数の面でも圧倒してた。文永の場合は純粋な強さ以外の要素で
決着が付いたんだと考えてるよ。



206 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 06:13:56 ID:???
ええい!もっと手短に分かりやすく書けないものか。

要するに
「元軍は日本への渡洋侵攻に関する根本的なノウハウを欠いてたから
二度とも失敗したんじゃないか?」ということで
軍隊そのものの強さの差よりもそちらの要因の方が
大きかったんじゃないか、と書きたかったんだ。



207 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 06:51:50 ID:???
>>205-206
例えば第4次十字軍と比較してどうなの?
第4次十字軍も全員が海兵のようなバイキングとは性質が異なり、主力のフランス騎士たちは
典型的な陸軍。
第4次十字軍も改めて遠征用の船を造らせるところから 準備を始めなければならなかった。
それでもちゃんとコンスタンティノープルを攻め落としてるじゃん。

あと、元寇で長期の渡洋侵攻が将兵の士気に悪影響を及ぼしたというのも疑問。
金方慶は「千里の県軍、其の鋒当たるべからず」という兵法を引用し、 長期の渡洋侵攻によって
将兵の士気が高まってると言ってるよ。



208 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 06:52:41 ID:???
韓国人には、このとき高麗が日本のためにわざと手抜きした船をつくったおかげで日本は救われたのだから
日本人は子々孫々にいたるまでこの恩を忘れてはならない
と言う人がいますね
在日の「歴史学者」の著書にもそういう記述があり、とても不思議な感じがしました


213 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 09:52:13 ID:???
ベネチアを味方に付ける→勝利
高麗を味方に付ける→敗北

って言いたいんですね




220 :名無し三等兵:2007/11/24(土) 18:34:32 ID:???
元寇と第4回十字軍との比較で言えることは、
第4回十字軍は元よりうまくやった、
日本はビザンツよりうまくやった、ってことであって、
日本が元より強かったという結論にはならんさ。
”文永、弘安の役で”日本が勝ったという事実に変わりがあるわけでもないがな。


223 :名無し三等兵:2007/11/25(日) 03:06:57 ID:???
国書の内容
天の恵みを受けたモンゴルの皇帝が日本の国王へ手紙出すよ
俺、おもうんだけどおまえんとこみたいな小国はさ国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?
ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ
隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ?
そういえばさ俺が即位してすぐお隣の朝鮮と講和したらさ
あいつら超しっぽふってきたぞw
おまえらも当然おれの子分になるよな?
俺の代になってからおまえらおれんとこあいさつきてねーけど
きっとおまえら世の中の変化を知らないだけだよな?
しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ
おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑)
今から仲良くしようぜ?な?
ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーな
俺も軍事力はつかいたくねーからよw
じゃあな!




224 :名無し三等兵:2007/11/27(火) 22:01:56 ID:TdoXek0z
皆、元寇について真面目に考察している。いいスレだなあ。


225 :名無し三等兵:2007/11/28(水) 16:20:02 ID:???
>220
普通に考えれば、”文永、弘安の役で”日本が勝った以上、
日本が元より強かったという結論になるだろ




227 :名無し三等兵:2007/11/28(水) 21:05:31 ID:???
こと戦争において、結果的に「うまくやった」ことを「強かった」と称することに
私はそれほど違和感を感じないのですが、感じる人もいるのでしょうか


228 :名無し三等兵:2007/11/28(水) 21:38:54 ID:???
勝ったもん勝ちでしょ


229 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 07:57:24 ID:???
戦争は、勝ったもんが強いとしか言い様がないな、
負けた方が弱いでも良いけど。


230 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 18:58:34 ID:???
>227
そこは政治の問題

勝ちを宣伝しすぎる。
すると
負けた(と日和見の第三者に解釈される側)が

「弱点と見られて内部や周辺国から革命起こされると迷惑だなぁ。革命抑止と武威威嚇を目的に進軍するか?」
「採算が取れないから撤退しただけで、負けたわけじゃない。証拠に進軍しようか?」


いらない報復を招く。



231 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 20:17:06 ID:???
終わってから10年とか100年程度しか経ってなくて、まだ歴史になりきってない戦争なら分かりますけど
700年以上前の戦争で「勝利を宣伝しすぎたことによる弊害」を気にしないとならないものなのかなあ



232 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 21:02:29 ID:???
半島なんか

1200年前という1000年以上前の
白村江
をひきずっていますが。
中東なんかユダヤ・アラブ双方がそれ以上だし。
Chinaも1000年かけて、王朝の分裂・統合を繰り返しているし。
イタリアなんか800年前の1200年あたりの分裂都市国家(ナポリ王国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、中には1000年近く前)のまま、2001年の現世をつっぱしていますし。

京都では一部の人の間(公家や神官)では戦をさすと応仁の乱(1467-1477)のこというし。

あくまで、(700年前なのにー)は日本側の価値観
気持ちは内に秘め、用心にこしたことはないかと。

政治の世界は、何が言質・口実になるかわかりませんから。



233 :名無し三等兵:2007/11/29(木) 21:14:34 ID:???
近隣諸国に対する配慮から、>>1の教師みたいな嘘八百を学校で教えることの方が
遥かに弊害が多いと思うけどな



234 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 00:08:18 ID:???
>>230
実例は?


235 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 15:12:40 ID:???
>>234
隋の高句麗遠征でどうよ?
服属したはずの高句麗が勝利宣言するから3度も攻めた
採算が取れないから撤退ってのもあてはまるし

ともかく、>>230のいいたいことは
元寇は台風のおかげで勝ったと教育しないと中国が攻めてくるってこと



236 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 15:32:04 ID:???
中国がそんなアホな国なら、日本には戦争する以外の選択肢はないな。。。


237 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 16:17:00 ID:5ps4sXcU
>>235
実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、


「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。
我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません
(来るなら来いよwwwボコボコにしてやんよwwww)」


という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国を返り討ちにするほどの日本に、
自分が攻め込んでも勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。


明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」



238 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 16:56:50 ID:???
>>235
そりゃ内容が伴わないのに勝利宣言するからだよw



239 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 17:08:02 ID:???
陸続きじゃなくて本当に良かったな


240 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 17:33:17 ID:???
陸続きじゃなくて良かったのは元の方
陸続きなら日本の方が元を征服していた


242 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 18:21:40 ID:???
モンゴル軍は2回とも鎌倉武士の集団戦法に全く歯が立たなかった
陸続きなら当然あっさりと日本に征服されていたはず


243 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 19:27:53 ID:???
アジアの大平原で日本の重装備+木曽馬の騎馬武者が勝てるかな?


244 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 19:47:15 ID:???
木曽馬はまったくハンデにならないよ。
モンゴル軍の蒙古馬と木曽馬は遺伝的にかなり近い種で馬格も同じくらい。



245 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 20:00:49 ID:???
海越しというハンデを今度はこっちが負う訳だが


246 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 20:08:54 ID:???
>>245
白村江や朝鮮征討ではハンデになってないが

白村江は当時世界最強の唐水軍にガチで負けた
海越えは日唐両軍とも同じ



247 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 20:22:55 ID:???
それ以前の391年に海越しで新羅と百済を征服したこともあるね

249 :名無し三等兵:2007/11/30(金) 22:38:03 ID:dlpnXbqM
>>223 ドキュ語なんだろうけどスイーツってどういう意味?


251 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 11:55:29 ID:DaiB2gRb
>>249
スイーツ(笑)
にかんしては恋空関連のスレ見てみれば概略理解できると思う
多分その女の文章が発祥だろうな
>>250は意訳として間違ってるわけでもないけど別に政治とは関係ない


252 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 12:03:09 ID:???
>>1はこのスレ印刷して、授業で配ってみろよ。
これだけ高度な軍事学的知見から、頭の悪い馬鹿左翼教師の嘘が明白に誰にも理解できるだろw


253 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 12:21:58 ID:???
>>243
蒙古馬やイリ馬も結構小さいから大丈夫と思うよ。
わしは,イリ馬を持っているが100kg以上の人間を乗せても
結構走るし…。
木曽馬も似たようなものではないかな。



254 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 12:28:10 ID:???
>>253
うらやましいなー
在来馬は消化器官と骨格が頑丈で西洋馬にくらべて怪我に強いらしいね
蹄鉄がいらない理由の一つにそういう身体的頑健さもあるようだね



255 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 12:37:06 ID:???
>>237
支那涙目だな

257 :名無し三等兵:2007/12/01(土) 14:35:54 ID:???
>>194

韓国では「元寇」の事を、「日本征伐」と呼んでいる。

こういう傲慢さはあの国の特徴。

征韓論も日本の「皇」を認めない対応が「無礼」として巻き起こった。
(未だに韓国は日本の「天皇」は「日王」と呼称している。)


話は逸れるが、朝鮮でも開国時に日本の様に攘夷運動があり、
フランス人宣教師9人と8000人ものキリスト教徒を処刑、
アメリカのジェネラル・シャーマン号の乗組員を虐殺した。

報復を恐れた朝鮮は、江戸幕府に救援を要請しているが、
この際に幕府の返礼使節が「大軍」で来ると疑心暗鬼になり、
今度は幕府使節を拒否するという訳の解らない対応をしているw
(ちなみに仏・米は個別に江華島へ報復攻撃を行っている。
米国の侵攻「辛未洋擾」では、戦死者は朝鮮が約350名、米3名だったが、
この惨敗でも、韓国では「撃退・米国に勝利」なんだそうだ…w)



比較して、幕府軍約4万と博多周辺の20㎞の大防塁で元軍14万人と戦い、
元軍11万人を戦死・溺死させる勝利
をしても「台風のお陰だよ!」か…
「歴史」って怖いね。



258 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 02:39:43 ID:???
>>237
そういう他板からのイタイコピペはしなくていいです



259 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 12:58:43 ID:???
>>258
支那涙目だな



260 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 15:43:36 ID:???
元寇=韓国大敗戦w


261 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 18:24:40 ID:???
>>257
征伐されちゃったのは蒙古軍なのにねぇ


262 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 18:48:25 ID:???
辛未洋擾、丙寅洋擾は米仏が目的を達せないままに引き揚げてるし
李氏朝鮮側の勝ちと言っても良いんじゃないか?
目的の達成のために許容できる損害、とか、そもそも敵の目的不達成が利益となったのかってのはあるけどね
朝鮮半島の黄海側は潮の満ち引きが激しい
そこいら辺の情報を集めてなかった米仏の手抜かりがあった
李氏朝鮮の批判されるべき点は、それについて勝った、と言ったことよりも、
その勝利を欧米列強への侮蔑に繋げて欧化を拒否したことにある、と言える


263 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 18:56:30 ID:???
>>257
征伐の理由は何と設定してるんだ連中?


266 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 20:12:04 ID:???
元寇の理由は厨劣王が故郷に帰りたかったから日本征伐を元に吹き込んだからだろう


267 :名無し三等兵:2007/12/02(日) 20:13:56 ID:???
そもそも倭寇が活性化したのは文永の役のせいなわけだが

269 :名無し三等兵:2007/12/03(月) 08:22:25 ID:???
>>263
元の第二次日本遠征に際し、高麗の定慧寺の禅僧冲止(1226~1293)が
日本遠征の威容をマンセーする「東征領」の中で述べたもの↓


皇帝(フビライ)が天下を統御するに
神功は放勲(帝堯)より越えた
徳は寛大で断折を包容し
広い恩沢は隅々にまで及んだ
車は千途の轍と共にし
書は天下の文章と共にした
ただ醜い島夷だけが残り
仮に鼎魚のように群れをなして生きていた
ただ滄溟を隔てていることを頼りにして
よって領域を分けることを図った
苞茅(朝貢のこと)はかつて入ったことがなく
班瑞(朝貢のこと)もまた聞いたことがない
そこで帝がこれに怒って
そのとき我が君に命令した
千隻の龍鵲(軍艦カ)の船と
十万の勇敢な軍兵で
扶桑(日本)の野において問罪し
合浦(馬山)の水辺で軍師を興した
鼓声が大海に鳴り響き
旗は長い雲を揺さぶった
(以下略)


偉大な元皇帝の属国にならないから「征伐」ということらしいよ。


270 :名無し三等兵:2007/12/03(月) 10:24:16 ID:???
なるほど時代主義で奴隷根性が骨の髄まで染みとおった朝鮮らしい論理展開


271 :名無し三等兵:2007/12/03(月) 10:38:47 ID:???
事大主義だった


272 :名無し三等兵:2007/12/03(月) 14:38:15 ID:???
>>270
違うね。
新羅や高麗前期の政権は事大主義といいながら巧みにシナ王朝の動静を利して
国益につなげていた。
それが元の侵攻で三別抄や各地の義軍に加わったような気骨ある高麗人は死滅し
奴隷根性の持ち主だけが生き残ったんだよ。

その後は李氏朝鮮が清に受けた扱いのように、朝貢国というよりは属国として徹底的
に搾取されるだけで、そのしわ寄せがすべて庶民に回ってくる「李朝五百年の腐敗」
が始まるわけで。
文禄・慶長の役で再び数少ない国士が斃れてますます腐敗濃度が濃くなったし。

273 :名無し三等兵:2007/12/03(月) 16:10:17 ID:???
>>272
>三別抄や各地の義軍に加わったような気骨ある高麗人


三別抄も裏では元に対して「朝鮮半島南部の支配権を認めてくれるのなら元に直接臣従したい」
とか申し入れていた卑怯者だけどな



274 :名無し三等兵:2007/12/03(月) 16:58:13 ID:???
「卑怯」ってのと、「巧みに強者の動静を利して国益につなげる」ってのは
言い方が違うだけでかなり似たようなものなんじゃないかと思うの



275 :名無し三等兵:2007/12/05(水) 08:25:01 ID:???
>>274
三別抄のやろうとしたことは国益に反する行為でしょ。
自分たちの利権を守るために、高麗の国土を切り売りしようとしたんだから。



276 :名無し三等兵:2007/12/05(水) 08:46:52 ID:???
鎌倉が三別抄を支援していれば元が日本に侵攻する余裕を奪うことができた
という意見があるようですが、どんなものですかね?



277 :名無し三等兵:2007/12/05(水) 10:55:38 ID:???
>>275
自分たちの利権のためだろうと、世界最強の蒙古に立ち向かったのは大したもんだと思わんか?
後の「大清国属国」の時代を考えると特にw
日本みたいに大陸の情勢がわからずにうっかり開戦しちゃったのとは違うんだし。
19世紀末にアメリカやフランス相手に交戦したのは明らかに世界情勢を把握していない夜郎自大
だったけどなw



278 :名無し三等兵:2007/12/05(水) 15:51:40 ID:???
>>277
三別抄は蒙古に立ち向かうつもりなんか最初からないの。
反乱前、高麗では王族と武臣たちの対立が続いていた。
王族側が上手くフビライに取り入ることに成功し、モンゴル軍をバックに武臣たちを
弾圧しようとしたから、それに反発した三別抄の乱が勃発。
三別抄は南下して半島南部に勢力を築くと、それを取引材料にフビライに直接臣従
しようとした。

つまり、三別抄の立ち向かった相手は高麗王朝で、
ようするに国がモンゴル軍に征服されようとしてる時に、
お互いモンゴル軍の威光を利用して権力闘争していただけなんだよ。


それから、日本が大陸の情勢がわからずにうっかり開戦しちゃったというのは嘘。
日本側は最初から大陸情勢を正確に把握していた。


『外記日記』文永4年11月25日条
「二十五日戊申、高麗の牒状、到来す。蒙古国、高麗を打ち取る。また日本を打つべしとの由と云々」


『元史』にも、元軍を朝鮮半島南部の金州に配備したところ、来日した元の使節が日本側から
抗議されたという記事がある。
当時の日本は、朝鮮半島内の元軍の配備状況まで把握していたってこと。



279 :名無し三等兵:2007/12/05(水) 15:54:04 ID:???
>>276
それも間違い。
日本に救援要請してきた時には既に三別抄は壊滅状態だった。





283 :名無し三等兵:2007/12/10(月) 17:39:45 ID:???
相手の事がわからずにうっかり開戦しちゃったのは、ボロ負けしたフビライの方だったな


284 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 08:32:02 ID:???
元をそそのかして日本侵攻を企てた高麗の愚かさは普通ではないですね


285 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 09:48:12 ID:???
宋とは存外関係が深かったのであるが。

平家なんかドップリと漬かっていたし、
武家の棟梁は「利権」の大親分の意味合いが濃い。
誰でも「利権」は欲しいが「血統」と「武力」で、
実際にそれを確固としたものにする大義名分が源氏。

鎌倉幕府も正式には交流していないが、
鎮西奉行を中心に宋・高麗との貿易交流は行っていた。
勿論情報も存外大量に集まっていたと推測できる。

それに北条得宗家は禅宗の保護者として名高い。
禅僧から学問を学び長じても相談役として繋がっていた。
その禅僧も中国からの渡来僧・留学僧が沢山いたから、
鎌倉幕府はかなり高いレベルで中国情報を持っていたと思う。



286 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 15:05:21 ID:???
博多にはかなりの情報が集まっていたでしょうね
博多自体、宋から逃げてきた商人たちによって大きく発展を遂げたわけですから
宋の商人たちも何とか元に一矢報いたいとさまざまな情報を積極的に鎌倉に流したようです

鎌倉側がその情報を十分に活かしたかどうかは議論のあるところでしょうが


287 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 15:28:08 ID:???
鎌倉幕府は元に対して正確な対応を続けていたのに、これ以上何の不満があるの?


288 :864:2007/12/11(火) 17:50:04 ID:HhTQKCN6
>>287
>>222>>269


289 :288:2007/12/11(火) 17:55:09 ID:???
スマン。途中誤爆だ。アンカーも打ち間違ってるorz
>>287
それについては、>>223,>>269。
要するに、日本人から見たら誤りのない対応でも、向こうさんとしては面子を潰されたということになるわけだよ。



290 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 18:02:09 ID:???
>>289
そういう国に対しては日本も面子を守るために戦うしかないじゃん。
何で戦えば勝てる国の属国にならなくちゃいけないの?
元の属国になり、侵略戦争の尖兵となってこき使われるのが正しいことなの?



291 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 18:07:41 ID:???
まったく
相手は勝てもしない相手に向かって脅しつけてるわけだよ
アホなのはどっち?


292 :288:2007/12/11(火) 18:08:50 ID:???
>>290
待て待て。悪いが、オレは難癖をつけてるわけではないぞ。
別に、元の味方でもない。
小国が属国になるのを拒否して、大国の勘気に触れる。
ありがちだよな、と言いたいだけだ。


293 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 19:30:29 ID:??? 

別に元は属国になれと言って来たわけではないし
戦争には勝ったが、慎重に外交してれば避けられた無用の帥で
いらん被害出して、鎌倉幕府滅亡の遠因になっただろ



294 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 20:41:09 ID:???
>>223で国書の内容が超意訳されてるけれど
これを「属国になれと言ってきた」という内容と見なすのかそうでないのかって
議論があるところなのどうなの


295 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 21:04:35 ID:6SSZbMku
>>292
鎌倉時代の日本は世界でも相当な大国の部類に入る国。
まず小国史観、後進国史観から脱却しましょう。
明治維新まで日本はいつの時代も後れていて小さい国だったという考えに凝り固まっていると真実が見えなくなるよ。

>>293
元の国書はまさに属国になれといってきたもの。
大体、自分を大蒙古皇帝とし日本国王より一段高く書いているくらいだから
完全に日本を臣下扱いだった。
こういう国とは当然対等な外交関係など成り立つはずがないし、
正式に臣例を取れば南宋との戦争に借り出されることは必定。
まともに外交なんかしたらそれこそ無用な被害を出さなければならなかった。

あれだけ領土を拡大したモンゴルが日本とだけは対等で健全な外交関係を結びたがったなんて阿呆なこと本気で思っていますか?




296 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 22:03:54 ID:???
モンゴルと対等で健全な外交関係を結んだ国ってあるの?


297 :名無し三等兵:2007/12/11(火) 22:06:16 ID:???
>>295
>大体、自分を大蒙古皇帝とし日本国王より一段高く書いているくらいだから
そんなもん歴代の中華帝国だって全部同じだろw
「属国」と「冊封・朝貢国」の区別つけろ
モンゴルが中華帝国である「元」になる前に占領された高麗は完全な属国
だったけどな

>正式に臣例を取れば南宋との戦争に借り出されることは必定。
南宋と断交して元と通交しろ、という国書だと思ったが
どこからそんな妄想がw



300 :名無し三等兵:2007/12/12(水) 00:13:58 ID:???
元の弓と日本の弓の違いによる有利さはどうなの?


301 :名無し三等兵:2007/12/12(水) 07:19:39 ID:???
元寇防塁は海岸から約50メートルのところに築かれましたが
それは当時の日本の弓の射程に合わせたものだったと言いますね


302 :名無し三等兵:2007/12/12(水) 08:11:58 ID:???
>>297
元は最初から日本の征服が目的だったよ。
だから使者を送るのと同時に日本征服用の戦艦の建造を開始している。
「慎重に外交してれば避けられた無用の帥」なんてのは当時の世界情勢を無視した空想平和主義。



303 :名無し三等兵:2007/12/12(水) 10:13:44 ID:???
>>302
使節派遣と同時に艦船建造開始したのは日本が二度までも国書を黙殺した後の
はずだが?



304 :名無し三等兵:2007/12/12(水) 10:42:21 ID:???
>>303
艦船建造開始したのは最初の使節の日本滞在中。
つまり日本の対応とは無関係に日本侵略の準備が開始されたってこと。


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コメント
この記事へのコメント
  1. 名乗るほどの者では…  2008/02/18(月) /00:13

    朝鮮の船について議論してるところがあるけど、
    真相は
    『一生懸命造ったけど技術力が無いからぼろい船になった』
    だろう。

    モンゴルに嫌々やらされたからぼろい船だったのでもないし
    朝鮮の造船技術がすごいから立派な船を造ったというのも嘘

    秀吉の朝鮮征伐のときの亀甲船なんて、実際は屋根に皮を張っただけの遊覧ボートみたいなものだった。
    鎌倉時代より戦国時代のほうが造船技術が退化するなんてありえるのか?っていう話。

  2. 名乗るほどの者では…  2008/02/26(火) /05:07

    朝鮮ならありえそうでこわい

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