元寇とはなんですか??

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元寇とはなんですか??

歴史上の元寇について教えてください。
ヨミガナ・ちょっとした情報でもかまいませんので・・・


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元寇(げんこう)と読みます。蒙古襲来とも呼ばれます。
元(正式には1271年以降は大元)はモンゴル帝国が後に立てた国です。

当時日本への侵略の前にヨーロッパも含めユーラシア大陸全土に触手を伸ばす大帝国でした。
元寇、つまり日本への蒙古襲来は二度あり、それぞれ文永の役、弘安の役といいます。

元は日本もその傘下へ組み込もうと大変無礼な国書を送り、返答を迫りますが時の幕府は
無礼な国書に返答する必要なしと無視し、いずれ攻めてくる元軍に対抗すべく軍備を整えるため、
まず国内の政敵達、反対勢力狩りを始めます。
結局最初の元寇である文永の役までには軍備増強は間に合いませんでしたが、命令系統の統一は間に合いました。
元軍が日本を参加に治めようとした直接の動機は
時の高麗(今の韓国)の王様がモンゴルの捕虜だった時代に高麗へ自分を帰して王座に就かせてくれるなら日本侵略を手土産にしますという取引をモンゴルとしたことによります。
がおそらくこのことが無くともいずれは元は日本に攻めてきたでしょう。
以下それぞれの戦争の経過をまとめます。

【文永の役】
元は日本への使節だった趙良弼の帰還と共に彼から日本の情報を仕入れ日本制圧(正確には九州の大宰府という街の制圧)
には3万の兵があれば足りると読みます。
最終的に蒙古軍2万5千、高麗軍8千が日本の博多湾へと殺到しました。
百道原というところから進軍した高麗軍は小規模な戦闘で勝利しますがその先の赤坂というところで菊池武房という武士の率いる武士団の手痛い反撃にあい撤退します。
また博多へ進軍した蒙古軍は日本軍にかなり優勢に戦いましたが、劉復享という総大将が少弐景資率いる武士団に狙撃され重傷を負い、軍がみだれてしまい撤退します。
おりしも夕刻が迫ってしまい。元軍は夜襲を恐れ船へと撤退してしまいました。
翌日からも戦闘を続けるかを合議した結果、日本軍の援軍はこれからもっと増えるだろうこと、元軍は消耗が激しいことを理由に撤退を決めます。
そして武士が水城という日本の拠点にいる夜の間に博多の市内に火を放ち、女子供を200人誘拐しそれを手土産に日本を後にします。夜逃げですね。
ところがその帰路にて日本海の荒波に揉まれ、大損害を受けてしまいます。
結局元の目的である大宰府占領どころか手前の水城すら攻略できず撤退するという元軍にとっては悲惨な結果になってしまいました。

【弘安の役】
前回の戦いから6年後のことになります。
今回の戦いでは日本側も準備万端で迎え撃ちました。
幕府は倭寇と呼ばれる松浦党を中心とした武士団による海賊たちや南宋の亡命者、僧侶、商人達などから情報を集め
元軍がどのくらいの規模の軍隊を何月ごろに送ってくるのかも把握していました。
今回の元軍はまず先鋒隊である東路軍(高麗兵を中心とした合計四万の軍)と後発の江南軍十万で構成されていました。
日本軍は防塁といって要は石垣のようなものを博多湾全域に張り巡らし、元軍が無傷で上陸することの出来る場所をなくしてしまっていました。
どこに上陸しようとしても防塁の上に待ち構える合計四万の武士軍団の矢の雨の中上陸しなければならないようになっていました。
仕方が無い元軍は志賀島という陸繋島に上陸しますが、志賀島はほとんど切り立った崖と起伏と森しか無い上、元軍が上陸した反対側には海ノ中道という地続きの部分がありここから武士が攻め込み上陸しようとする元軍を悩ませます。
そして夜になっても武士の攻撃はやまず今度は海から小船で元の船に乗り込み白兵戦で散々に元兵を殺します。
結局耐え切れなくなった元軍は二日間で3千人の被害を出し上陸を諦め海上へ撤退します。
元軍には少し遅れて援軍が到着する予定でした。
ところが予定の日になっても援軍が到着しません。元軍内部でもここで撤退論が出ますが結局追いすがる日本軍から逃げながら援軍を待つことになります。
多少の小競り合いもあるものの約一ヶ月近く海上での追いかけっこの後、ようやく江南軍と合流しますが
残念ながらこのとき元軍にはほとんど士気らしいものは残っていませんでした。
やがて運命の日元軍を台風(後の神風)が襲います。
台風が去った後総崩れになった元軍指揮官達は動けなくなった自群の船団を見捨て動ける舟だけで逃走します。
日本軍は逃走した船を追わず、平戸・鷹島を中心に現場に残された残党狩りを行い。5日後、完全に掃討しました。なお今回の説明は高麗史という高麗の歴史書の内容をメインに述べられています。
日本では両国関係に留意してあまり詳しくは経緯を説明しない風潮にあります。

参考資料
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/index.html
http://blogs.yahoo.co.jp/sa341gazelle/MYBLOG/yblog.html

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コメント
この記事へのコメント
  1. 名乗るほどの者では…  2008/05/11(日) /14:06

    元軍に敗走する絵というのは19世紀の創作で書き足し。
    あれは神通力で勝利した事を強調する為に作り変えられた話。

    当時の日本では伏竹弓から三枚打弓という合成技術が用いられ、
    更に七尺五寸(約227cm)の長さの大弓が一般的だった。

    しかも独特の射出法と鍛錬により馬上でも連射可能。
    更に大弓には盾を破壊する矢等もあり手にもつ盾は役に立たなかった。

    更に日本では武士は世界では数が少ない専門軍人であり、
    総合的な遠近両武装が施されていた。つまり、弓兵であり槍兵であり
    抜刀切り込み兵であり騎兵だった。更には従者も弓を使えた。

    合成短弓かつ、役割分担された元軍では遠近両用かつ馬術に長けた
    日本の武士に対応出来ず、鉄はう(爆弾ではなく単に花火で驚かすもの)
    でも怯まない専門軍人(とはいえ初期の武士は幕府軍ではなく地方豪族)
    相手に拠点を構築出来ず、そのまま船から展開出来なかった。

    結局夜になって双方が船や城の拠点に戻り、敵の援軍が来援したら話に
    ならないので最初の元軍は周囲を荒らす程度で逃げ帰った。

    ちなみにこの時の兵4万は日本討伐の必要兵力として求められた人数であり、
    既に他の国で船舶による制圧作戦を経験していた部隊。偵察隊等ではなかった。

    第二次では前回の失敗を元に大規模な侵攻部隊が組まれたが、日本側は
    海岸線に土塁を築き、更に今度は現地兵ではなく幕府の兵であった。
    彼らは平家との海戦や集団戦闘で戦いなれており、陸上、船上共に元軍は
    良い所が無く、追いやられた挙句最後には台風にやられて海の藻屑と消えた。

    元軍は元々多民族兵を主体としており、他の国は3千人~数万でボロボロに
    されていた。日本は破格の派遣であり、更に破格の大敗でもあった。

  2. 実力でモンゴル帝国を撃退していたサムライ  2008/07/07(月) /10:32

    実力でモンゴル帝国を撃退していたサムライ

    http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=pfree&page=6&nid=363776&start_range=363427&end_range=364021

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