世界最強鎌倉武士団【日本】【天晴】

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1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:29:46
13世紀、世界最強だったのはモンゴル騎兵ではなく鎌倉武士。
直接対決でも勝ってるしな。



2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:36:17
素朴な疑問だが、蒙古は九州に馬持ち込んだの?


3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:44:12
>>2
八幡愚童訓
「其中に、大宰少弐三郎左衛門尉景資殿を、日大将軍として待かけたるところ、
十月廿日未明より、蒙古陸地に、おしあかり、馬にのり、旗をあけて攻かかる」


4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 16:45:20
>>3 そうですか
即答&明快な答えサンクスです


5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 19:16:00
>>1
陳興道とハルジーとバイバルスの立場は……


7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 05:10:57
>>5
マムルーク朝やハルジー朝が勝ったモンゴル軍は、所詮はフレグ・ウルスやチャガタイ・ウルス。
日本が勝った大元ウルスとは、国力が比較にならない。
マムルーク軍がアイン・ジャールートで戦ったモンゴル軍が1万2000程度だった
のに対し、文永の役の元軍は4万。
それに、ハルジー朝がインダス川を遥かに越えデリー近郊まで侵攻したモンゴル軍に
ようやく勝利したのに対し、日本は元軍が九州に橋頭堡を築くことすら許さないという
完封勝利。


大越の陳朝が勝ったのは確かに大元ウルスだが、日本の場合とは勝利の内容が
大きく異なる。
陳朝はモンゴル軍襲来の度に首都を占領され、国王がデルタ地帯に逃げ込まなければ
ならなかった。
1257年にハノイの大羅城を攻略したウリャンカダイ率いるモンゴル軍は僅か3000だったのにだ。
そのため、日本が最後まで元からの独立を貫いたのに対して、陳朝は元への入貢を約束し、
王族を人質に出し、国内にダルガチを配属しなければならなかった。


9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 06:50:56
素人考えなんだが、相手が渡海して攻めてきたのと、
陸路で来たのとを単純に比較は出来ないんじゃないの?


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 11:52:18
>>9
例えば十字軍とかは、ヨーロッパから中東まで侵攻するのに、渡海と陸路という2つの
選択肢がある場合は、ほぼ渡海の方を選んでいる。
船を使った方が、遥かに大量の物資を、迅速に運搬できるというメリットがあるからね。
現実に、日本へは文永の役4万、弘安の役14万という大軍が投入されているだろ。
大元ウルスは、元寇と前後して東南アジアへも陸路侵攻しているけど、そちらは大半が
万に満たない兵力の小規模な作戦だった。



11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/24(土) 23:14:00
以前から疑問に思ってたんだが、この時の日本軍の指揮系統どうなってたんだ?

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 00:35:57
>>11
文永の役では、鎮西奉行の少弐氏が日本軍の指揮を執っていた。
あと幕府は中国地方でも動員をかけているが、そちらでは御家人たちは守護の指揮の
もとで戦うことになっていた。


文永の役の結果、モンゴル軍が大して強くないことが解ると、幕府は元に攻め込むことも
視野に入れて、西国の守護を北条一門で固めるようになる。
弘安の役では、関東御使の合田五郎や安東左衛門次郎が派遣され、鎌倉と九州の調整を
おこなっていた。

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 15:14:18

しかし文永の役の頃っていえば、元の対南宋戦の途中だよな
北アジア~中央アジアも安定してないし、日本に主力と言える位のモンゴル人騎兵連れてこれるのか?

それに元の騎兵=モンゴル人騎兵というのも変だろ
その頃にはキプチャク系の騎兵も元には居たはずだし(まあ日本には連れてきていないと思うけど)


21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 15:19:41

騎兵部隊の海上輸送なんか、ウィリアム征服王や十字軍だって普通にやっている。
大モンゴル帝国にできなかったとしたら、そっちの方が問題だろ。
それから、蒙古襲来絵詞に描かれているのが高麗部隊だっていうのは、ほぼ定説。


23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 17:17:39
>>20
モンゴル帝国が多方面の軍事作戦を同時進行でおこなうことは珍しくない。

あと、厳密にモンゴル人騎兵と呼べるような部隊は、モンゴル高原の外に出た段階から存在しないよ。
モンゴル軍は通常どこでも他民族部隊。
だから、元の騎兵は立派にモンゴル騎兵だよ。


24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 19:21:46
>>23
じゃあわざわざ高麗とか漢人とか言う必要すら無いじゃないか
みんなモンゴル歩兵とモンゴル騎兵で良いよ



25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/01(木) 19:22:38
>>23
じゃあわざわざ高麗とか漢人とかいったり、主力云々を語る必要すら無いじゃないか
みんなモンゴル歩兵とモンゴル騎兵で良いよ


26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 10:08:12
元軍の民族構成云々は元々、
日本軍のモンゴル軍に対する勝利を認めたくない連中が言い掛かりとして持ち出した話じゃん。
モンゴル軍の他の戦いでは、そんなこと気にしないくせに。


チンギス・ハン死亡時(1227年)のモンゴル軍左翼の民族構成
モンゴル同盟部族 39%
契丹人 16%
バリアン氏族 16%
女真人 16%
オイラート族 6.5%
オングト族 6.5%

元寇で日本に攻めて来たモンゴル軍が他民族軍なのなんて当然だろ。


28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 15:36:45
日本に来たのはモンゴル帝国内で最強の大元ウルスのモンゴル軍。
大元ウルスに対しては、他のモンゴル内の有力者も度々反乱を起こしているが、
クビライは連戦連勝。
ナヤン・カダアンの乱で、カダアンとその息子ラオディ率いるモンゴル反乱軍は、
朝鮮半島で大元ウルス・高麗連合軍によって壊滅させられたんだ。



29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 15:43:23
ねえ教えて
ウルスって何じゃろ?


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 16:21:52
>>29
ウルスってのはモンゴル帝国内で成立した帝国内国家。
その中で最大なのがクビライの大元ウルスで、クビライはモンゴル帝国全体の大ハーンでもある。
バトゥのロシア・東欧遠征によって成立したのがジョチ・ウルス。
フレグの中東遠征によって成立したのがフレグ・ウルスで通称イル・ハーン国。
大元ウルスと対立していたカイドゥが死んだ後、中央アジアに成立したのがチャガタイ・ウルス。


31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/02(金) 17:19:55
長弓騎馬なんて使ってたの日本だけ?

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/03(土) 16:41:24
長弓は馬上では扱いづらいからね。
日本の場合は、弓の形を上下非対称にすることでその問題をクリアしたんだけど、
この非対称形ってのは、世界の他の弓とは異なる日本の弓の大きな特徴。


33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 01:06:30
日本人の得意とするところ


34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/04(日) 21:17:15
バイバルスのマムルーク軍の方が強いんじゃね?


35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 17:42:08
アイン・ジャールートの戦いでマムルーク軍が勝ったのは、単にマムルーク軍の方が
モンゴル軍よりも数が多かったから。
マムルークたちは、カスピ海の東北方草原のトルコマンやカフカズのシルヤッス、
南ロシアのキプチャックなどの出身で、その戦術は遊牧民のもの。
基本的にモンゴルとマムルークは、似た物同士なんだよ。

寡兵でモンゴル軍を撃破した鎌倉武士なら、マムルーク軍にだって楽勝だよ。


36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 19:31:12
渡海侵攻の不利を無視して鎌倉武士最強とか言われてもねえ。
上陸直後は機動の余地が無いし、消耗した兵や武器の補充は出来ないし
船酔いもあるし、何よりたった2万5千の軍を輸送するのに国が傾く
ほどの船舶を建造しなければならないほど金がかかる



37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/06(火) 20:18:13
>>36
対馬海峡の渡海侵攻なんて大したことないぞ。
文永の役のモンゴル軍よりも少ない1万9千という兵力で朝鮮に渡った小西行長は、
上陸したその日に釜山城を攻略し、3週間で首都・漢城を征服してる。

それに文永の役で日本軍は、上陸直後にモンゴル軍を叩いたわけではない。
騎兵主体の日本軍は、機動戦術を取りやすい場所にモンゴル軍が進軍して来るのを
待ってから、戦いを挑んでいるのだ。
その結果、わずか一日でモンゴル軍が敗退したのだから、言い訳無用で武士の方が
強かったんだよ。

あと、2万5千の軍を輸送するための船舶を建造も、当時の高麗の造船能力なら特に
問題なし。
高麗は1268年にもクビライの命令で大型戦艦千艘を建造している。
この時は、クビライから視察のために派遣された役人が戦艦の出来に満足し、更に
100艘を追加注文した程だった。
ちなみに文永の役の際の造船では、900艘の内で大型船は300艘のみで、大多数は上陸
などに使う小舟。


38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/07(水) 04:20:15
よかったなw


39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 01:07:30
>>37
文禄の役の時の朝鮮はろくな軍隊もなく、日本が攻めてくるとも思っていなかった
のだから参考にはならない

元軍主力と日本軍が戦った博多から筥崎にかけては海から1キロも離れておらず
背後に海のある元軍が自由に機動できる余地はあまりない

それと一日目の夕方には日本軍は博多・筥崎を放棄しており、戦闘そのものは
元軍が勝利している。ただし最終的には元軍は撤退しているので、戦争全体では
日本軍の勝利で間違いない。

高麗の造船能力、というか国力はかなり疲弊していたはずだが。建造できた
からといって余裕があったということにはならないと思う。詳しく知っているわけでは
ないのでこれ以上言うつもりはないが、言いたかったのはたった2万5千の兵を
運ぶのにいちいち国を挙げて船舶を建造しなければならないほど渡海侵攻は
手間とコストがかかるということ



40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 13:07:49
元軍の上陸地点は博多や筥崎の正面の息の浜ではなく、
もっと西側の百道原や生の松原の付近だから、
海を背後に日本軍と戦ったわけではないよ。
それから元寇の時代、博多や筥崎に戦略的な価値なんか皆無。
戦後の歴史研究者たちは、元軍が大宰府への進軍を完璧に阻止されたことを誤魔化すため、
元や高麗が全く争点にしていない博多や筥崎を持ち出して、日本軍が負けたかのような
印象操作をしている。

コンパスとか無いこの時代、元の艦隊は山や岬などの地形を利用して、船を運航させる
「沿岸航法」。
文永の役当夜は雨が降っていたから、月明かりは無いし星も見えない。
博多湾や周辺海域の土地勘も無い。
元軍は夜の内に日本から撤退しているけど、戦闘そのもので日本軍にボロ負けし、それ以外に
生き残る術がないという状況でもない限り、900艘もの艦隊を夜中に出港させるはずが無いじゃん。

案の定、元の艦隊はその夜に岩に触れて大惨事に陥るわけだが、その時日本軍は馬蹄飼場良く
兵糧潤沢な水城で、「蒙古の一方の総大将の劉復享をやっつけた」と言って大喜びしていた。
文永の役は、日本軍のワンサイドゲームだよ。



41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 05:58:05
博多が鎮西探題が置かれるまで戦略的にそんなに重要ではない、てことか?
ウリャンハタイが何だかんだいってハノイでしばらく過ごしてたのを見ると頷けないこともないが、それだと、どうして博多は守らなかったんでしょ?



42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/10(土) 10:05:42
>>41
もともとこの頃の日本の村落は、守れるような造りにはなっていないから。
さすがに無防備のまま放置して置くのはまずいと思ったのか、文永の役の後
防塁を作ったんだけど、これってあくまでも市民を守るための物なんだよね。
弘安の役で、河野通有とかは防塁の前に布陣していたし。


43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/11(日) 01:47:53
>>40
元軍は百地原・生の松原とは別に博多にも上陸している

博多に戦略的価値があろうがなかろうが、日本軍がそこで戦って退却した
ことに変わりはないんだが

夜の闇に紛れて退却するというのは敵の追撃を避けるための常套手段で、
ボロ負けの根拠にはならない。というか、敵の目前で白昼堂々と退却しようと
する指揮官はあまりいないと思うが。


44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 02:20:42
>>43
金剛仏子叡尊感身学正記
「十月五日、蒙古人著対馬、廿日、着波加多(博多)、即退散畢」

同時代の人間の日記に「即退散」などと書かれている以上、文永の役が元軍のボロ負け
だったのは史実。
問題なのは、どのようにボロ負けしたかだけだから。

元軍は日本から撤退する際、志賀島に座礁した兵士220人を見捨てて、逃げ去ってるだろ。
同じ撤退でも、例えば慶長の役の日本軍は露梁海戦の後、南海島に取り残された横山久高
率いる兵士500余人の救出作戦を行なった上で、撤退してるんだよね。
その辺が、ボロ負けした軍と、そうでない軍との差だ。


あと、元軍が博多正面から上陸した事を裏付ける史料ある?



45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 12:57:58
第一回目の攻撃は日本と南宋の連携を断ち切るための示威行動だったという説があるね
食糧武器の不足から撤退したというが、たった数日でそうなるということは最初からロクな準備もしてなかった傍証



46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/14(水) 15:41:09
元が完璧に負けたことを認めたくないあまり、元の装備が貧弱だったから負けたと言いだすのか
あわれ蒙古厨w


47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 03:50:29
>>45
まず、元軍が余りにもあっさりと敗退したため、
文永の役は示威行動としては、まったく機能していない。

日本の貿易船は何事も無かったかのように南宋へ向っているし、鎌倉幕府はあきらかに以前より
元に対して強気になっている。
「異国征伐」と称して元に攻め込む計画すら立てていたのだ。

あと、元軍の撤退理由が食糧不足などという記録は無い。

武器にかんしては、元史に一応撤退理由として「また矢尽き」と記されてはいる。
だが、それを言うなら、1257年にタガチャルが南宋侵攻から撤退した理由について元史には、
「秋の長雨のため」と記されているし、1260年にフレグがシリアから撤退した理由については、
ルイ9世宛ての書簡で「馬匹に与える飼料と牧草が尽きたため」と記されているんだよね。
こういった言い訳は、モンゴル軍が撤退する際のお約束だから、通常なら真に受けたりはしない。
戦後の日本史研究者たちは、「日本軍が強かった」以外の説なら、どんなに根拠が貧弱でも、
平気で採用するけどね。

フビライが日本征服の意図を明確にし、高麗に準備の開始を命じたのは1268年。
それから、1274年の文永の役まで、準備期間は十分過ぎるほどあったからな。


48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 12:25:02
日本の荒い海は数個師団に相当する、と近代でも言われていたな
実際、元軍に勝ったベトナムとかジャワとかもそうだけど騎兵が活用できない地形を利用して迎撃ないし伏撃・追撃は対モンゴル戦勝利のセオリー
バイバルスのように、蒙古騎兵とよく似た弓騎兵を養成して叩く手もあるけどね、文化とかの理由で普遍化は困難



49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 12:39:17
個人的には少弐景資が文永の役の元軍副将・劉復亨を射倒したのが大きいと思う
船を焼いての徹底攻撃を主張したのは高麗軍の金方慶だが作戦会議で全く賛同を得られなかったようだ
司令部からの損害が心理的に影響を与えたんだろう



50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/15(木) 22:14:56
元の大軍を2度にわたり撤退させたのが、日本ではなく
ヨーロッパ辺りの国だったら、条件がどうであろうと
もっと高く評価されていた気はする。
 


51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/16(金) 11:12:31
宗助国らの奮戦こそ鎌倉武士の華
圧倒的大軍相手の命尽きるまで抵抗した
一方残虐な元・高麗軍は民衆を虐殺し、数珠繋ぎで船べりに並べるという非道まで行った
これが戦後に旧南宋人は助けられたが元人と高麗人は容赦なく処刑される伏線になった


54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 18:08:35
文永の役、モンゴル騎馬軍団は5分の1の兵力に過ぎない武士に歯が立たず、たった1日で敗退。
弘安の役、更に江南から10万もの大軍を送り込んだが、日本軍によって皆殺しにされ、僅か3名しか生還できず。
この2つの戦いが、その後の日中関係に与えた影響は大きい。

実は明の朱元璋も、日本に対して武力侵攻をちらつかせ、脅迫をしてきたことがある。
しかし、それに対する日本からの返答は、

「天下は天下の天下であって誰か一人の天下ではないのです。我が国には、水沢の地や山海の洲にも
備えがあり、明の武力侵攻を恐れたりはしません」


という挑発的なものであった。
当然、朱元璋は激怒したが、あの強大なモンゴル帝国ですら完敗した日本に、自分が攻め込んでも
勝算は無いと考え、泣く泣く矛を収めるしかなかった。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 09:14:17
>あの強大なモンゴル帝国ですら完敗した日本に、自分が攻め込んでも
>勝算は無いと考え

朱元璋がそう漏らしたの?


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/27(火) 15:46:14
万単位の蒙古騎兵による釣り出し・伏兵戦術なんかが活用されたヨーロッパの戦いでは西欧騎士軍団は壊滅(リーグニッツの戦い)
相手が戦力投入するだけでも苦労する日本海の賜物



57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 05:04:18
>>55
明史・卷三百二十二列傳第二百十外國三
「帝得表慍甚、終鑒蒙古之轍、不加兵也。」



58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 05:24:34
>>56
対馬海峡を超えて戦力投入することなんか、大昔から誰も苦労なんかしていないぞ。

391年に日本から朝鮮半島に渡った軍勢は、新羅・百済を征服。
663年の白村江の戦いでも、日本から2万7千もの大軍が朝鮮半島に渡っているし。

現実に文永の役でも弘安の役でも、普通に万単位の元軍が渡航してるじゃん。
その結果、ヨーロッパで西欧騎士軍団を壊滅させた蒙古騎兵は、鎌倉武士に完敗したんだから、
鎌倉武士>蒙古騎兵>西欧騎士軍団。



59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 10:10:01
>>58
苦労してないって……
もしかして兵士も必要な物資も泳いで渡れると思ってるの?w



60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 13:02:14
>>57
おお、それ知らなかった。情報サンクス。


61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/28(水) 22:34:47
>>59
兵士や必要な物資の輸送なんか、古代の日本軍ですら余裕で行なってるだろ。
13世紀の元軍は、古代日本以下なの?



62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 00:35:45
橋頭堡があるかないかで随分違うんだけどね


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/29(木) 04:55:48
>>62
例えば文禄の役の日本も、朝鮮半島に全く橋頭堡を持たない状態で渡航侵攻したが、
上陸するや破竹の進撃で2ヶ月後には首都・漢城を征服していた。
それと比較して元寇の元軍は、あまりにも情けなさ過ぎると思わないか?
同じ対馬海峡なのに、日本側から朝鮮を攻めるのと、朝鮮側から日本を攻めるのとでは、
何でこんなに歴然とした差があるの?
元寇でモンゴル軍が九州に橋頭堡を築くことすらできなかったのは、単に日本軍よりも
弱かったからじゃん。


79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:31:42
鎌倉年代記裏書
「十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北」

帝王編年記
「六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々」

おまけに敵側の高麗史にも戦って負けたと書いてあるしな。

高麗史表
「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等与征日本、至壱岐戦敗、軍不還者萬三千五百餘人」


80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:39:21
>>79
「倭兵大敗伏屍如麻」(「高麗史節要」)

日本側の『八幡大菩薩愚童訓・筑紫本』にだって「懸出ル程ノ者漏テ返ルハ無カリケリ(向っていったもので帰還できるものは無かった)」と苦戦を明記している
要するに、相手が帰ってくれたから「酷く叩かれたが防衛目的は達した、結果的には勝ちだ」としただけ
日本側が強かったから、なんてそれこそどこにも書いてないよ



81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 13:45:56
だいたい文永の役がそんなに楽勝だったら
・異国警護番設置、北条一門及び幕府直臣層の派遣による指揮系統・軍事体制整備
・民衆を動員しての今津から宗像にまで及ぶ防塁作り
・安達一族に率いられた、主に関東衆から成る他地方からの増援
などの諸改革を進めて防備を固めた理由がそもそもなくなるよ



82 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:03:05
>>80
高麗史節要には「至一岐島、撃殺千餘級」などと書かれているが、この時壱岐を守っていた
武士は平景隆率いる100騎だけ。
あきらかにあり得ない戦果が書いてあるんだが・・・


「蒙古襲来絵詞」に描かれた高麗軍は、赤坂で菊池武房に蹴散らされて敗走している。
武士にまったく歯が立たなかったのを隠すため、民間人でも殺して戦果を水増ししたんだろ。
元史日本伝には、日本を敗ることが出来なかったから、その埋め合わせに四境を虜掠した
と書いてあるしな。

八幡大菩薩愚童訓は八幡神の霊験を示すために書かれた文献だから、武士が苦戦したと
書くのは当たり前。
鎌倉年代記や帝王編年記のような史書とは、同列に扱えない。



84 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:21:20

北条一門及び幕府直臣層の派遣による指揮系統・軍事体制整備は、文永の役の
圧勝で強気になった幕府が、元に攻め込むことを想定しておこなったこと。

今津から宗像にまで及ぶ防塁作りは、あくまで非戦闘員に対する虜掠を防ぐため。
弘安の役で、河野通有などは防塁の前に布陣していたし、志賀島や壱岐の元軍に
対しても日本軍の方から積極的に攻勢を仕掛け、防塁に篭って戦おうなんて姿勢は
皆無だった。



86 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:29:57
防塁に頼らなかったのなら、河野通有の『後築地』が評判になるかぁ?
だいたい当時の日本の武士団は緩やかな封建制で、動員から武装・指揮系統や情報伝達システムあらゆる点において内戦レベルで止っていた
有効に戦える条件自体が防御戦という一点しかない



88 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:38:32
>>86
実際に弘安の役において、防塁では戦闘が行なわれなかったから。
それに弘安の役は、日本軍が配備されていない志賀島・壱岐・鷹島などに上陸し、
野戦築城をして迎撃態勢を整えた元軍を、日本軍が攻撃するという展開。


90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:54:04
防塁の役目は何も篭るだけじゃない
弘安の役の戦地図を見れば分かるとおり、文永では好き勝手に上陸できた元軍がより大規模でありながら攻撃位置を限定させられている


91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:10:00

日本軍は志賀島で迎撃態勢を整えたた元軍に対し、圧倒的に少ない兵力で攻撃
しながら連勝し、博多湾からの撤退に追い込んでいる。
武士の戦闘力が元軍を遥かに凌駕していた証拠。


92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:19:23
そんなに武士の個別戦闘力が圧倒していたのなら、四百対百(騎、という表記だから他に従者・島民の臨時徴収兵等もいた可能性があるが)程度の差で平景隆勢が全滅にまでおいこまれないんじゃ?
志賀島戦(海戦含む)だって、少弐氏や大友氏といった幕府役職もちの有力御家人部隊が集中投入されてたし



93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 15:49:36
>>92
平景隆勢は丸1日持ちこたえているんだから、壱岐は普通に大善戦だと思うがな。
400というのは、最初に船から下りて東方と敵方を三度ずつ拝んだ元兵の数で、
戦闘中に増員があったという可能性もあるし。
実際、高麗史では高麗軍の朴之亮や金方慶の婿の他に、後から副元帥の洪茶丘が
追加投入されている。



94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 18:39:40
志賀島の戦闘は元軍は上陸したものの先へ進めず結局撤退、でいいんだっけ?


155 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 12:47:12
水城って天智天皇時代の遺跡でしょ。ここが補修されてたとか兵糧溜めてたとかの記述は筑紫本にしかないし
そんなところを頼りにしなきゃならないレベルが当時の日本の軍事能力
蒙古襲来の危険が分かってるのなら、対馬や壱岐の味方・民衆収容とかせめて城塞建設とかやっとけよ



157 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 19:26:20
あのさ、おれも君たちの大嫌いな在日だが。在日3世。
別に嫌われようがこっちはどうでもいいよw

日本という国における「楽して稼げる職業」は在日・帰化人が握ってるし(笑)
脱税もしまくりで、相続税も免除なのよw。闇口座も仮名で作り放題w。
世代を経るにしたがって金が増えてく寸法さw。パチンコ、サラ金、日本の長者番付にのってるのは在日なんだよw。
金あるから在日でも日本人女とやりまくり。さらにはレイプしても全然バレないw
あと数年で日本の参政権も取得できるし(爆) 既得権益最高!

俺達はもうお前達みたいに毎日毎日職業とか将来とか金の心配なんかしなくていいんだよw
バックに朝鮮総連や創価学会がついてるし、働かなくても行政から月20万の金入ってくるしねw
今俺達が考えてるのはもっと大きいこと。
いかにしてこの日本という国をボコボコにいじめ抜いてやるか、ってこと。

つまり、日本の中に、俺たち朝鮮人、韓国人の血を増やして在日を増やす。
んで日本人を少数派にしてその日本人をいじめたおす。んでこの国を乗っ取る。
今はもうその最終段階に入ってるわけ。
平和ボケした危機感ゼロのお間抜け日本人は気づいてないがw

例えば韓流ブーム。あれは在日が作ったって知ってる?
あれだけ大規模なブームを作れるくらい、もう日本の中で在日の力は最強なんだよ。

自分達を地獄に導いてるとも知らずに毎日毎日テレビで韓国をヨイショしてくれる日本人w
韓流ブームのお陰で在日や韓国人へのマイナスイメージがプラスイメージになった。
そして日本人が韓国人や在日と結婚する数も圧倒的に多くなった。
つまりもうあと30年で日本は完全に在日主体の社会になるよ。

たった100万人に満たない在日に使われる1億人の日本人w お前ら糞日本人に一生地獄の生活を見せてやるよw

どう?ムカムカする?(爆)
でもせいぜい今みたいに2ちゃんで数十人ぐらいがチョン死ねって言うぐらいだろうね(爆)



158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 03:52:12
そこは朝鮮韓国をモンゴル変えるところだろう・・・


160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/12(木) 00:12:07
>>155
現実に存在する城塞を頼りにするのは当たり前の話で、レベル云々の問題ではない。
それに、この時代の兵站収集はかなり組織的に行なわれていたから、それが日本軍の
本陣である水城に貯蔵されていたとしても、別に不思議じゃないだろ。
あと、対馬や壱岐に元軍を撃退できるだけの兵力を常駐させて置くなんてことは、
最初から不可能だし、民衆収容とかも13世紀の国家に求めることじゃあないよな。



162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 16:19:06
世界最強じゃなくても元寇は鎌倉武士の大勝利。


163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 20:39:14
与野党総朝鮮人
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/yotoyato.htm


164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/14(土) 22:02:37
元寇は嵐がなくても鎌倉武士団が勝っていると思うよ。
博多一帯を制圧できたとしても、
山地や森林が多い日本で、
地図もないし土地勘もない大陸の軍隊が勝てるはずがない。
あちこちで、桶狭間が繰り返されるのが落ちだろ。
鎌倉武士が最強だとは思わないが、
日本国土防衛なら、モンゴルだの十字軍だのイスラムが来ようとも
負けないだろうよw



165 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 15:17:07
戦後の元寇研究がインチキだということを示す例に、武士の弓の性能が、元軍の
それに比べて、著しく劣っていたという話がある。
これは、黒田俊雄が中央公論社の『日本の歴史8 蒙古襲来』の中で書いていること
なのだが、読んでみると何故か日本の弓の「有効射程」と元軍の弓の「射程」を
比較している。

P98~99
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、
(日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人
手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦
したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した」


「有効射程」が「射程」より短いのなんて当たり前じゃん・・・

更にこの「日本側の矢は有効射程100メートル以内」という話も、まったくの根拠不明。
文永の役で、武士は一町(110メートルぐらい)の距離から正確に元兵を狙撃して殺し、
大笑いしたという記録だってあるのだ。

戦後の歴史研究者たちは、武士に悪意を持って印象操作しているとしか思えねーぞ。



166 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/15(日) 19:41:12
>>165
鎌倉武士の鎧は厚く頑丈で元軍の矢は鎧を貫くことができなかったそうだよ。
全身針鼠のように矢が刺さっても平然と切り込んで行った武士もいた。


168 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 13:23:12
台風のせいじゃない?

169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 15:49:17
>>167
一般的に鎌倉時代の日本の矢は「射程」四町(440メートルぐらい)とされている


170 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/16(月) 16:12:30
>>168
1回目の文永の役では、台風は無関係。
完全に武力のみで武士は元軍に勝利。

2回目の弘安の役では、元軍は6月初めに博多に来て撃退され、それから2ヶ月間
武士から逃げ回っているところを、7月末に台風に遭遇。
船が壊れて逃げ続けることが出来なくなった元軍10万は、武士に皆殺しにされた。

普通に実力の勝利だろ。


172 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/17(火) 08:50:46
蒙古弓と和弓の詳しいスペックってどこかにないですか?


173 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/17(火) 23:23:29
吉川弘文館から出版されたばかりの新井孝重「戦争の日本史7 蒙古襲来」。
P57で「弓は短弓で飛距離は200㍍もある。日本の長弓の二倍はあった」などと
書いているから、参考文献の頁を見たら案の定、黒田俊雄の「蒙古襲来」が。。。


吉川弘文館は「日本史研究における戦争史・軍事史研究を活発に推し進める
魁となれば」などど言って戦争の日本史シリーズを刊行しながら、「射程」と
「有効射程」の区別もつかない奴に本を書かせちゃ駄目だよね。


174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/18(水) 09:11:24
蒙古弓の有効射程はどれぐらいだったんでしょう?


175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 04:33:29
>>172>>174
イギリスのロングボウのように単一素材の弓だと、強度の問題で張力に限界があるが、
日本の弓もモンゴルの弓も複合弓なので、使用する個人の腕力次第で、いくらでも
張力を高めることができる。
同じ張力の弓なら、日本の方が矢の均一性や反発力が高いため、命中率や殺傷力が
モンゴル軍を上回ることになる。




177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 08:17:36
沖縄県の方へ(命に関わる注意事項です)

沖縄県での選挙ですが、どうか民主党だけは避けてください。県民の生命に関わる可能性があります。
民主党の最大の公約は一国二制度(※)ですが、一度「一国二制度 沖縄」等で検索をお願いします。
この際、民主党のHPで調べても良いです。以下の注釈↓と矛盾することは書いてないはずですから…

※一国二制度
 簡単に言えば沖縄を中国と日本の共有物にし、そこに3000万人の中国人を入植させます。
 (つまり沖縄人口の 96% を中国人にして、実質、沖縄を中国人の居住地とします。)
 さらに「自主」の名の下、沖縄で有事が起きても自衛隊は干渉できません。
 3000万人の中国人が、少数派となった130万人の日本人に何をしても、です。
 そして中国人の反日感情の強さは、ほとんどの日本人の理解を超えるものです。

今回の選挙で民主党が勝った場合、「自主」「発展」を連呼しつつ段階的に進めていくことになります。
自主と言っても、自主を認めるのが「住人の96%が中国人となった」後だということに気をつけてください。
発展と言っても、新沖縄の少数派となった「少数民族日本人」の発展ではないことに気をつけてください。

180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 00:17:02
新井孝重の『戦争の日本史7 蒙古襲来』(吉川弘文館)がヤバイことになってる。
この本が凄いのは、同時代性とか一切無視して江戸時代に書かれた『北肥戦誌』を
元寇の史料として多用していること。
中でも圧巻は、「てつはう」について大胆な新説を展開している箇所。


蒙古襲来 P57
「『北肥戦誌』という本によると、「てつはう」の威力はすざましく、その音天地
に響くだけでなく、あたるところのものは木っ端微塵となり、味方はこれのため
討たれるもの数知れず、おおいに怖じ恐れて、みな其処かしこに逃げ竄れ、
「大将ノ下知ヲモ不相用、更ニ戦ハントモセザリケリ」といった具合であった」


新井孝重が根拠としている『北肥戦誌』の記述をもう少し詳しく読むと・・・

北肥戦誌
「蒙古豫ねて日本の用心をや量りけん。件の石築地に猶二三丈が程高く、己が船に
勢楼を切組み置き、是を俄に組み立てて、日本勢の陣所を遥か目下に見なし、其頃
曾てなかりける佛郎機を放し掛けしかば、其音天地に響き、中る所微塵となり、
味方是が為に討たるる事数を知らず」


元軍は元寇で佛郎機(フランキ)を使用していた!!!

そもそも『北肥戦誌』の記述だと、武士が蒙古に連戦連勝しているのだが、
その点は見事にスルーされているし・・・

まさに戦後のトンデモ元寇研究の集大成だな。



181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 04:18:43
島国攻め落とすのは大変なのよ


182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 09:48:44
>>175
すいません、「矢の均一性」ってどういう意味ですか?
鏃から筈までのバランスのことですか?


183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 15:25:21
>>181
島国のイングランドは、フランスの一地方の豪族に過ぎないノルマンディー公によって、攻め落とされてるよ


184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 15:31:20
>>183
ドーバー海峡は最狭部で34km
日本海は?と言ってみたくなった


185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:05:24
>>184
ノルマンディー公はドーバー海峡の最狭部を渡ったわけではないから。
ディーブ河口を出発してサン=ヴァレリーを経由し、イングランドのぺヴェンシーに上陸。
距離的には、文永の役の元軍や、弘安の役の東路軍と大して違わない。

それに、島国イングランドは北海を遥か隔てた半島デンマークにも征服されてる。



186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:18:14
では月並みだが気象条件はどうか


187 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:21:18
>>186
その点では、はっきりと元軍の方が有利


188 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 16:39:30
そこいらを説明願いたい


189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 17:10:02
>>188
ノルマンディー公がディーブ河口に艦隊を集結させたのは8月上旬。
ところが悪天候のため出港することが出来ず、9月11日には一度渡航を試みたものの、
失敗してサン=ヴァレリーに漂着。
そこから延々と天候回復を待って、ようやくイングランド上陸を果たしたのが9月28日。

一方の元軍は文永の役で、10月3日に合浦を出港し、10月5日に対馬、10月14日に壱岐と
順調に船を進めた上で、10月20日には博多上陸を果たしている。
弘安の役の東路軍は、5月3日に合浦を出港し、5月21日に対馬と壱岐を襲撃した後、
6月6日に博多湾到着。

あきらかに、ノルマンディー公の方が気象条件で苦労しているだろ。



190 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 17:41:46
>>182
矢の重量や重心位置、規格などが一定であるということね


191 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/20(金) 20:56:14
歴史が捏造されているのは事実です
事実を伝えても注目されないが、嘘を言えば注目されるからね
歴史家が犯罪者という共通認識でいいのでは


192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 02:27:16
和弓のスペックが上回っていたのは、蒙古弓は半弓なのに対し
和弓は長大だったからではないでしょうか。
モンゴルの矢は規格をバラバラに作っていたのですか?


193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 09:03:27
>>189
なるほど面白いね
ありがとう


198 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 03:42:16
運良くモンゴル追い出せたね


199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/03(木) 16:08:52
>>198
だから運じゃなくて、モンゴルより強かったから勝利した。それだけ。


200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 10:24:16
>>199
笑える妄想だね


201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/04(金) 15:13:19
普通に日本が圧倒してて勝ってるからな
台風とか大して関係なかったし



202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 02:47:32
世界最強なの?


203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 13:04:08
>>202
当然。
寡兵の鎌倉武士団がオープンスペースでモンゴル軍と戦い、大宰府に指1本触れさせずに勝利。
圧倒的な強さじゃないか。



204 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/05(土) 19:16:04
>>203
文永の役では蒙古33,000に対し日本5,000。
それだけの兵力差でたった1日で蒙古逃げ帰る。
撤退中に荒波に遭遇して更に惨めな姿に。
残された連中、皆殺し。
蒙古の戦術、鎌倉武士軍に通用せず。



205 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 17:00:33
それにしては遺骨も出てこんし、捕獲武器もほとんど皆無
大戦果を挙げたと言う記述は武功を認めてほしい日本側の御家人のみの不思議




206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 17:58:26
>>205
大戦果を挙げたという記述は、元や高麗の文献にも書いてあるから。

文永の役
高麗史表「十月、金方慶、元の元帥の忽敦・洪茶丘等と与に、日本を征す。
壱岐に至りて戦い敗れ、軍の還らざる者万三千五百余人」


弘安の役
元史日本伝「七日、日本人来り戦い、尽く死し、余のニ、三万は、そのために
虜去せらる。九日、八角島(博多)に至り、尽く蒙古・高麗・漢人を殺し、
新附軍は唐人たりといい、殺さずしてこれを奴とす。・・・十万の衆、還るを
得たる者三人のみ」


207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/06(日) 22:15:31
日本の武士が行儀良く名乗ってる間に蒙古が集団攻撃してきて
結構苦労したって学校の先生に習ったんだが



208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/07(月) 15:06:56
>>207
元寇について学校の先生に習うことなんて、基本的に全部嘘だから。

武士が元寇でどのように戦ったかについて、実際に戦闘に参加した武士自身が監修した
「蒙古襲来絵詞」に優る史料は存在しない。
その「蒙古襲来絵詞」の中では、武士は蒙古に名乗ったりせずに集団で戦っているし、
対する蒙古は多くの兵が負傷して敗走している。

つまり、「蒙古襲来絵詞」は「武士の集団戦法に苦戦する蒙古」を描いた絵巻なんだよ。

それなのに、戦後の歴史教育は長年に渡り、集団で戦う武士や敗走する蒙古をカットし、
一部分だけを切り抜いて、「蒙古の集団戦法に苦戦する武士」などというまったく正反対の
絵として教科書などに載せていた。
確信犯で子供に嘘を教え続けていたわけ。

209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/08(火) 01:11:00
ようは鎌倉武士団が強すぎて
かなりの数の首級を上げてしまい恩賞の分配の当てが全くなかったってことだな


211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/12(土) 15:21:23
>>205
元寇で日本軍が大戦果を挙げたという中国側の文献ならこんなのもあるよ。

鉄函心史
「辛巳(1281)六月半ば、元賊、四明(寧波)より海に下り大船七千艘、
七月半ばに倭国白骨山に抵り、土城を築き兵を駐し塁に対す。晦日(7月30日)
大風雨と作り雹の大なること拳の如く。船は大浪に掀翻し沈壊し、
韃(モンゴル)軍の半ばは海に没す。船は僅かに四百余隻回り、二十万人は
白骨山上に在りて船の渡帰する無く、倭人に尽く剿る」

遺体の処理のついては、日本側の文献によると、
元兵を多く殺しすぎて面倒になり、 魚の餌にしたらしい。


八幡ノ蒙古記
「異国人とも、船あらはこそ、にけもせめ、今はかうとて、命をします散々に戦ひつ、
そのさま、組ては海におとしいれ、引出しては、ころし、皆、落かさなりて首をとり、
射ふせ切ふせ、始めは梟にも、かけしかとも、後には打積おきて、魚のゑそと、
なしにけるとそ」


212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 22:51:44
なんか世界最強とか言ってる時点でうそ臭く感じる


213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 09:00:12
>>212
まあ、世界最強でないにしても、いわゆる元寇は対馬、壱岐以外は戦闘でも鎌倉武士軍が全て勝利してるよ。



214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 16:12:15
総合判定:日本弱かった派の根拠はお笑い。

学校の先生にそう教えられたから。
 (日本弱かった派の脳内は、チイチイパッパのレベル。批判精神皆無。)

元軍は、博多あたりを焼き討ちしたから。
 (日本弱かった派は、個々の戦闘の優勢劣勢のような枝葉末節しか注目できず、戦略目標無視の単細胞)

文永の役の後、防備を固めたのは日本が弱いから。
 (後の弘安の役を的確に予見する能力こそ、強い証。
日本弱かった派は、目の前の相手に子供のケンカすることしかできないらしい。)

日本の軍制は劣っていた。
 (日本弱かった派は、日本の指揮系統・装備・錬度・戦術などにケチをつけるが、根拠なし、又は揚げ足取りレベル。)

元軍は、渡海するのが大変だった。
 (日本弱かった派は、元軍が圧倒的に不利だったと言いたいらしい。4世紀ころからの軍団の渡海の歴史を知らず、無知をさらすばかり。
  今日の定期航路のように随時渡海できるわけではない。しかし、それと軍団の渡海との区別がつかない馬鹿っぷり。)

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 12:49:39
戦後の日本史研究者が元寇について言っていることなんか全部捏造なのさ。

当時の史書に書かれた文永の役↓

【鎌倉年代記裏書】
『十月五日、蒙古寄来、着対馬嶋、同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北』

江戸時代の史書に書かれた文永の役↓

頼山陽【日本外史】
『十一年(1274)十月、元兵一万可り、来つて対馬を攻む。地頭宗助国、これに死す。
転じて壱岐に至る。守護代平景高、これに死す。事六波羅に報ず。鎮西の諸将をして、
赴き拒がしむ。少弐景資力戦し、射て慮の将劉復亨を殪す。慮兵乱れ奔る。』

戦前の史書に書かれた文永の役↓

白鳥倉吉【国史】
『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年の
ことでしたので、これを文永の役といいます。』

戦後、GHQ占領下の教科書に書かれた文永の役↓

第七期国定教科書【くにのあゆみ】
『すると忽必烈は、文永十一年(西暦一二七四年)十月、九百せきあまりの船に、およそ四万の
兵を乗せて、博多湾に攻めこませました。武士たちは、勇ましく戦ひましたが、敵が上陸してきたため、
大そうなんぎをしました。ところが、大風がおこつて、敵の船をくつがえしたので、これを退けることが
できました。』


219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 14:16:26
鎌倉武士団がボロクソだったなら台風が来ても大丈夫なように陸地に設営されてるだろ
戦争でもっとも危険度が高いミッションは上陸戦だからそれを何度も繰り返す事なんかしない
一回上陸したらそのまま敗北でもない限り本拠をそこに置く



220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 14:57:09
>>219
もちろん元軍が陸上での戦闘に負けない限り、乗船して暴風雨に遭遇する様な状況は発生しない。
実は、文永の役で元軍が船に戻った理由は、謎でも何でもないんだよね。
高麗の文献に、劣勢に追い込まれた元軍が日本から撤退するために乗船し、帰路で暴風雨に遭遇したと、
はっきり書いてあるのだから。

高麗史金方慶伝
『忽敦、曰く「兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり」と。疲乏の兵を策して、日ごとに滋すの衆に敵するは、
完計に非ざるなり。軍を回すに若かず」と。〔劉〕復亨、流矢に中る。先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。
会々、夜、大いに風雨す。』


忽敦は元軍の総司令官。
彼は元軍を「小敵」に、日本軍を「大敵」に例えて、戦況が絶望的で撤退以外の選択肢がないと言っている。
流れ矢に当たって負傷し、真っ先に乗船したと書かれている劉復亨は、元軍の副司令官。
日本側の文献には、少弐景資の部隊との戦闘中に狙撃されて落馬したと書かれている。
元軍が風雨に遭遇したのは、「遂に兵を引いて還る」の後の出来事だよね。

これだけ明快な記述がありながら、戦後の元寇研究はインチキだから、元軍が負けた事を認めないんだよ。


221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 16:00:28
日本の地形元軍にとって相性が悪すぎるよ
率いたのもたいした将軍じゃなかったし



222 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/19(土) 16:17:41
>>221
文永の役の戦場となった福岡平野なんて、元軍にとっては理想の環境じゃん。


223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:05:29

鎌倉武士の戦術もまた集団による騎兵戦術です。
学校の教科書にあるような名乗りを上げて一騎で突撃したなんてことはありません。
鎌倉武士の騎兵戦術が元軍を上回りました。

それと日本の当時の鎧は非常に厚く頑丈で元軍の弓ではなかなか鎧を貫けませんでした。
全身に矢を被い針鼠のようになっても鎌倉武士軍は元軍に斬り込んで行きました。

もう一つついでに。
鎌倉武士軍の日本刀の切味の凄さは元軍の武器の比ではなかった。
元軍の兜ごと真っ二つにしたり、また元軍の刀や楯さえ切り裂く威力で散々に蹴散らされたのは元軍です。

文永の役のとき元軍3万を超えるのに鎌倉武士軍わずかに5千。鎌倉武士軍は戦術も兵器の質でも元に勝りました。
それが勝因です。



224 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:18:49
鎌倉武士の騎兵って・・・・・
日本には明治になるまで騎兵なんかいないし
蹄鉄、ハミ、去勢、馬具、乗り方に至るまで日本に騎兵が存在した形跡は全く無
し、和製馬じゃ動きがトロいし、その上ギャロップも出来ん
『馬の世界史』を嫁



225 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 19:31:56
日本弓の素晴らしさをなめすぎ


226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 20:40:56
モンゴルの合成弓より数段劣るがな


227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 21:42:01
「ところが、元軍の矢は二町(220メートルぐらい)ほども射程があるので、
(日本側の矢は有効射程100メートル以内とみてよい)、味方にたちまち二人
手負いが出た。景隆らは城(といっても簡単な館だが)にたてこもって防戦
したが、衆寡敵すべくもなくついに城の内で自害した」


「有効射程」が「射程」より短いのなんて当たり前じゃん・・・

更にこの「日本側の矢は有効射程100メートル以内」という話も、まったくの根拠不明。
文永の役で、武士は一町(110メートルぐらい)の距離から正確に元兵を狙撃して殺し、
大笑いしたという記録だってあるのだ。


228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/20(日) 22:03:42
モンゴルの弓が極東の土人の弓より射程が短かったらユーラシア制覇など出来る
はずがない
もし射程の短い弓なら大多数の騎馬弓兵によるアウトレンジ集中射という戦術が
使えないどころか射程は短いが貫通力のある欧州や中国の弩に殲滅されるだろう
それに日本に来襲したのはほとんど高麗兵
元軍の主力は文永の役時では南宋攻略に、弘安の役時には親族の反乱鎮圧に投入
されている



230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 01:18:58
>>224
>日本には明治になるまで騎兵なんかいないし
残念、いなかったのは騎兵隊であって騎兵ではない。

>蹄鉄、ハミ、去勢、馬具、乗り方
例えば、ローマ末期になるまで西欧では蹄鉄はなかったがアレクサンドロスや
ハンニバル、スキピオやカエサルが騎兵隊を運用してたことを疑う奴はいまい。
馬の扱いが原始的であったことと騎兵・騎兵隊の有無は直接関係しない。


>和製馬じゃ動きがトロいし
生憎だが、日本人に畜産の知識がなかったせいで、よい馬ほど戦場に優先的に
送られて子孫を残せなかった結果、時代を下れば下るほど馬格は貧弱に、
つまり時代を遡れば遡るほど馬格が立派になるという話がな。

>その上ギャロップも出来ん
中世期の全身に鉄の装甲を纏った戦士を乗せた馬は、ギャロップどころか
並足がせいぜいって見解は洋の東西を問わないんだ。


実際に大鎧を着て良馬に跨った鎌倉騎士が実数数百人だったとしても、
それが十分な訓練を積んでいて士気旺盛であったならば、歩兵数千どころか、
あるいは万にも達する力を発揮しただろう。
別に大げさに言ってるわけじゃなくて、中世の重装騎兵ってのはこういう存在。
歩兵の何倍何十倍の値段する装備と十分な鍛錬をした死を恐れない封建騎兵は、
それだけのコストに見合った働きをした。

>>228
>もし射程の短い弓なら大多数の騎馬弓兵によるアウトレンジ集中射という戦術が
>使えないどころか射程は短いが貫通力のある欧州や中国の弩に殲滅されるだろう

生憎だがそのとおり。
冒頓単于のいない匈奴は武帝の軍によって追い散らされ、
アッチラ死後のフン族は惰弱なギリシア人の傭兵に成り下がった。
モンゴルがあれだけ領土を広げたのは、つまりのところチンギスハーンとその子孫が
優秀な指導者だったからということが大きい。



232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 13:03:49
ギャロップできない騎兵はいない
日本では騎馬突撃出来るようなハミや鐙、鞍は明治以前に開発されたことは無い
和製馬は農耕や駄馬に適しているが、騎兵用には全く不向き
とにかく馬に関する歴史書を嫁



233 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 13:26:44
>>232
実際に文永の役で騎兵突撃をおこない、元軍を蹴散らしてるじゃん

http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/7f/00/sa341gazelle/folder/526905/img_526905_6727469_1?2006-06-06%2018:06:53



234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 13:52:14
>>232
春日権現霊験記繪巻
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y04/html/n02/p024.html



235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 18:11:39
騎兵突撃を一度も見たこともなく、和製馬以外を目にしたことない当時の日本人
の記述じゃ説得力まるで無し



236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 19:41:31
>>235
当時の日本人が、騎兵突撃を一度も見たこともなければ、その様子を描くわけ無いだろ


237 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/21(月) 22:31:07
>>232
>ギャロップできない騎兵はいない
近代の騎兵ならね。
銃弾の飛び交わない戦場では、全身鎧があればそんなにスピードはいらんのだ。

>日本では騎馬突撃出来るようなハミや鐙、鞍は明治以前に開発されたことは無い
マケドニア騎兵は鐙も鞍もなかったけど騎馬突撃したね。
ハミが何で騎馬突撃に必要なのかはまるで理解不能。
日本に鐙は古墳時代からありますが。


>和製馬は農耕や駄馬に適しているが、騎兵用には全く不向き
不向きなのと可能不可能なのかはまったく別。

238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 03:57:02
高麗史にある軍議の記述。文永の役の博多の戦闘後。
わずか1日で元軍戦意喪失。


元軍司令官「蒙人は戦に慣れてるがこれ以上は何も得られない」

高麗軍将軍「我が兵少なしといえども既に敵地に入っている。船を焼き背水の陣でまた決戦したい」

元軍司令官「疲れた少ない兵では大軍の餌にしかならない。撤退するしかない」



239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 00:07:33
世界史板の騎馬否定厨はここにもいたか


241 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 03:00:05
騎馬否定厨は読んだ本に正確に何と書いてあったのか、UPするべき
単にこいつに読解力がないだけかもしれん
ハミも鐙も鞍も全部日本に昔からあるし、遺品だって多く残ってる
あるとあらゆる史料が日本に騎馬がいたことを証明しているぞ



287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 00:53:06
『トンデモ日本史の真相』を見ていたら鎌倉武士ではないが、武田騎馬軍団の話
で、以下の理由で日本においては騎馬軍団の突撃はなかったとしている
・日本での騎馬兵は騎馬弓兵で突撃はしなかった
・騎馬兵は実際、戦う時は下馬して組み撃つのが常である
・日本在来の馬は体高110-140cmのポニーである
・日本には去勢技術がなく、去勢しない馬で戦闘に入ると武者は振り落とされ、
首を取られるのが落ちである

やっぱり日本には突撃出来るような騎兵なぞ存在し得なかったんだ、納得、納得



288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 02:35:15
全力で釣られてみよう。

>>287
>・日本での騎馬兵は騎馬弓兵で突撃はしなかった
室町期には騎射より槍などでの白兵戦がメインになってたはずだが…。
第一上でもさんざ鎌倉武士の騎馬突撃について言及されてるし、飛び道具を
放ちながらの突撃は歩兵騎兵問わずわりとよくある戦術。


>・騎馬兵は実際、戦う時は下馬して組み撃つのが常である
根拠が分からんことにはどうにも。重装騎兵同士の戦いの最終局面ではそうだろうとしか。

>・日本在来の馬は体高110-140cmのポニーである
蒙古馬もそんくらいだよな。

>・日本には去勢技術がなく、去勢しない馬で戦闘に入ると武者は振り落とされ、
ストラボンは去勢技術を、スキタイ人やサルマチア人の変わった風習と書いているが。

まぁ武田騎馬軍団は無いだろうがな。


289 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 10:00:51
じゃ、と学会に抗議すれば
HPもあるし


293 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 12:28:31
平安時代に攻めてきたらやばかったな


294 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 16:32:38
>>293
平安時代だと、894年に朝鮮半島から新羅の海賊が攻めて来たことがあるけど、
これは対馬守・文室善友がクロスボウ部隊を率いて撃退している。
あと、1019年には女真族による刀伊の入寇があったけど、こちらは藤原隆家が
騎兵部隊を率いて撃退。



296 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/11(月) 22:35:55
>>289
って、と学会の本かよ。いつからあそこは啓蒙本の出版処になったんだ。
…とその前にちょっと内容の解説を調べてみたら、普通にトンデモ学説の紹介本みたい。
武田騎馬軍団の項の執筆者が暴走して馬脚を現したか、それとも>>287がデタラメ書いたのか?



299 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 18:59:31
287はデタラメ鈴木真哉

301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/12(火) 23:37:57
オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの『モンゴル軍』には、
「ポニー(小型の馬)に乗ったモンゴル人は単騎なら9日間に600マイル(約965㎞)を走破できた。」
なんて書いてあるね。
中世の軍馬としてはポニー最強だな。



302 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 01:04:07
馬って小型種のほうがスタミナあるんだな。


303 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 10:06:20
>単騎なら

替え馬を2、3頭連れて次々と乗り換えるから早いんじゃなかったっけ?
うろ覚えだが

>軍馬としては

チャージャーとしてならやはり西洋でいう「軍馬」の方でしょう
モンゴルポニーは小回りがきくのが強み


304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/13(水) 11:04:46
オスプレイ・メンアットアームズ・シリーズの『グスタヴ・アドルフの騎兵』には、
三十年戦争の抜刀突撃で有名なスウェーデン軍の軍馬について、
「1622年と1623年の装備目録によれば、
スウェーデン騎兵部隊の馬の平均身長は、幹部クラスの馬で14ハンド(1m43㎝)、
騎兵用はわずか11から13ハンド(1m12㎝~1m33㎝)だった。胸甲騎兵の馬でさえ、
「鞍をつけて14ハンド」にすぎなかった。」
なんて書いてあるよ。


313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/12(木) 19:26:44
412 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 17:34:22 ID:R25ckwX90
現在の在来馬主の方の証言(要約すれば西洋馬に比べおとなしく素直で物事に動じない。はみなどいらない去勢も必要なかった等)とsporran氏の語る在来馬(もとから気が荒い上に去勢してなかったんだからさらに手に負えなかったはずだ)の姿が正反対なのが面白い

どちらも嘘をついているのではないと好意的に見た場合、思うにこういうことではないかと思う。
つまり在来馬全体がもとから気が荒いということではなくむしろ基本的にはおとなしくて物事に動じないおおらかな気性であってだからこそ軍馬用としては
そのなかで特に気性の荒い馬を選抜する必要があったと。
であれば「誰が主人か」だけを徹底的に叩き込めば躁馬に関しては細かい調教が不要馬具も凝ったものは不要というのも納得できるようにおもわれる。
とすれば日本の古文書で言うところの「あの馬は気性が荒くて云々」という描写で語られる馬も実は同時代の西洋馬の御しにくさと比較したらたかが知れてる程度で西洋馬よりはるかに聞き分けがよい馬だったのではないだろうか?

ただ明治維新後の軍馬に関しては早くから西洋馬との交配がなかば狂信的なほど性急に推奨されたということなので、この時期以降の記録に残る馬に関しては大幅に馬の気性も変わったのではないだろうか


413 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 17:39:39 ID:R25ckwX90
>西洋馬の御しにくさと
一応補足

西洋馬の世界での基準における「気性の荒い馬」の御しにくさと…

のほうが誤解がないかもしれない


414 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 20:41:33 ID:dsAlVweI0
>>406
>>412で武士の馬は制御が難しい根拠が無くなりましたが…

それはそうと騎士の馬のはみがH型なのはアラブの影響では?
日本の場合アラブの(遊牧民の)影響がほとんど無いらしいので
蹄鉄もないし帯も胸ではなく首の辺りにかけて
馬が重い荷物を運べなかったらしいです
もっぱら輸送は船と人力じゃないかな?駕籠なんて物もあるし


415 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/18(金) 21:39:41 ID:waF5by5U0
なるほど。スポランさんも意外と思い込みにとらわれてるのね
417 :名無しさん@一本勝ち:2007/05/19(土) 00:30:45 ID:+gAFwguW0
西洋馬・・・去勢無し>>>>>>>>去勢済み

日本馬・・・>>>>>>去勢無し>>>>>>>去勢済み


てことですかね


314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 08:23:40
っていうか日本に「はみ」が無かったなんて話は完全に嘘だから



315 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/14(土) 07:34:21
1の意見には感服する。元軍が一日で撤退した理由とかどんな説よりも納得できる。
世界一かは判らないけど・・
ただ、一つだけ疑問が、wikiに日本軍の弓の射程は文永の役の経験から改良して弘安の役で元軍より射程が長くなったとあるんだけど、そうなの?


316 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 03:12:59
はみがなかったではなくて無くてもいいよという話だとおもわれ


317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 10:01:54
>>315
弓の射程は最初から日本の方が長かったよ。
出版されている元寇関連本には、日本の方が射程が長かったと書いてあるものもあれば、
元軍の方が射程が長かったと書いてあるものもあるけど、後者は基本的に>>165に書いて
ある「有効射程」と「射程」を比較するインチキ研究がベースだから。

wikiの弓の射程に関する部分は、
吉川弘文館の「日本の時代史9 モンゴルの襲来」の中で、
杉山正明が書いてることに影響されてる感じがする。
杉山は1996年に出版された「モンゴル帝国の興亡」では、
元軍の弓の方が射程が長かったって書いていたんだけど、
その後考えを改めて、2003年出版の「モンゴルの襲来」では、
日本の弓の方が射程が長かったって書いてるんだよ。

wikiの筆者は、中間を取って文永の役では元軍の方が長く、弘安の役では改良されて日本の
方が長くなったと考えた可能性はあるかも。
wikiの筆者本人に聞かないと真相はわからないけど・・・

兎に角、文永の役と弘安の役の間の短期間に、日本の弓が急速に改良されたなんて話はない



318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 10:27:55
日本の弓てのは面制圧じゃなくて狙撃型なのかな?
厨な質問で申し訳ないけど


319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 23:23:55
>>317
サンキュー。そうだよね。倍以上の射程距離を持つ敵の弓矢を採用するならともかく、数年で元からあった弓を4倍の射程距離に伸ばせる訳がないもんね。


320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/17(火) 07:34:14
>>318
ケース‐バイ‐ケースだよ。
文献には、雨の如く矢を降らせている場面もあれば、狙いを定めて狙撃している場面もある。



321 :名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 12:18:51
「元寇の際に武士が一騎打ち戦法で戦っていたなんてことはあり得ない」
こんなちょっと考えれば誰でも分かることを、日本史研究者の誰も気が付かなかったはずがない。
気が付いていても真実を正直に言うことがタブーなんだと匂う本がたまにある。

例えば中世合戦についての著書を何冊か出している近藤好和。
治承・寿永期までの戦闘を扱った『弓矢と刀剣 中世合戦の実像』吉川弘文館のP175。

「『平家物語』の弓射の類型表現からも、それが騎馬であれば、馬静止で矢を前方に射る騎射がイメージ
されるのである。仮に馬を馳せていたとしても、かかる表現の騎射は、『蒙古襲来絵詞』にみえるような
全軍が一団となって突進し、進行方向に矢を射る状態、いわば集団での追物射の状態をいうのであろう(図30)。」

この頁には図30として『蒙古襲来絵詞』の白石道泰率いる100余騎が突撃する場面が載せられている。
つまり、全ての元寇関連本で「一騎打ち戦法の武士が集団戦法の元軍に苦戦した」と書かれている中、
元寇以外の中世合戦を考察した本では、『蒙古襲来絵詞』が武士の集団戦法の史料として使われている・・・

更に、古代から治承・寿永期までと何故か元寇をとばして南北朝期を考察した『騎兵と歩兵の中世史』吉川弘文館の、
「中世前期戦闘考察の史料」の項目P8でも・・・

「中世前期の戦闘考察には、『今昔』などの説話物語集や『平家』などの軍記物語のほかに、有力な文献史料が
ないことは異論がないであろう。一方、絵画史料としては、『前九年』の他にも、『平治物語絵巻』や
『蒙古襲来絵詞』などがあり、合戦絵巻としてはむしろそれらのほうが有名で『前九年』はあまり注目されていない。」

『蒙古襲来絵詞』の名が挙がる一方で、元寇研究で武士の一騎打ち戦法の根拠とされている『八幡愚童訓』が、
中世前期の戦闘考察の史料としては見事にスルーされている・・・
八幡神の霊験を述べた神道書の『八幡愚童訓』と、実戦に参加した武士の実録である『蒙古襲来絵詞』を、
戦闘考察の史料として同列には扱えないということ自体は当たり前なんだけどさぁ、何でその当たり前のことが
肝心の元寇研究では無視されているんだよ?
元寇研究とそれ以外の中世合戦の研究では整合性が皆無じゃん。

嘘を嘘と知りつつ放置する日本史研究者たちって、腐りきった人間の集団だよな。


325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/06(月) 08:50:56
日本マンセー学会の連中は嘘つきばかりだかw
論文の一つも出せない素人歴史ファンらしいわw


326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/16(木) 04:43:44
>>325
どっちが正しいの?
素人には分からんのです


327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 12:05:33
>>326
自分で史料を直接確認してみたら?

例えば文永の役について、元史は「官軍整わず、また矢尽き、ただ四境を虜掠して帰る」なんだから、
少なくても作戦通りじゃなかったことは認めているわけだよな。
高麗史では「戦いに敗れて1万3千5百余人が帰還できなかった」と明確に負けを認めてる。
日本側の鎌倉年代記や帝王編年記でも、蒙古が合戦で撃退されたことになっている。
実際に戦闘に参加した御家人が作成した蒙古襲来絵詞だと、元軍は武士の集団戦法に圧倒されて
逃げ回っている。
そして、戦後の研究者たちが言っているように武士が戦闘で負けていたなんてことを裏付ける信用
できる史書は無い。


現状はこんな感じだが・・・


328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 19:32:19
>>327
俺はアンタの意見の方に整合性を感じる。
やっぱ、素人なりに軍事学の参考書とか読んだりしてみると、
戦後の定説はおかしいな。
上の方にある弓の射程距離とか明らかに戦後説は矛盾がありすぎ。
325にも出来れば、何らかの資料を提示して欲しい。そうすれば、見比べが出来るから。




349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/01(月) 18:50:38
誰か文永の役を映画化しろよ


351 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/05(金) 10:09:55
>>349
文永弘安と通してやらないと


354 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 00:14:10
この時代の日本の想定する世界は本州と四国と九州のみらしいな
だからポニーでテクテクと歩く速度で“走って”
ようやく敵と会ったら“やあやあ我こそは・・・”と宣う
上記の世界に限定されれば世界一強いな



355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 08:33:32
>>354
モンゴル軍もポニーに乗ってヨーロッパの騎士団を蹴散らしたんだが・・・
当時の世界で最強の騎兵を擁していた遊牧民とかは、みんなポニーサイズの
馬に乗っていたんだよね。

それから鎌倉武士が敵に名乗りを上げて一騎打ちを挑むなんていうのは完全に
ファンタジーの話。
現実には集団戦法でモンゴル軍に圧勝してるし。


357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 14:53:16
名乗りを上げて一騎打ちを挑むのはファンタジーではない
確かに互いに名のあるものであれば一騎打ちをすることもある
ただ、すくなくとも蒙古兵に名乗りを上げての一騎打ちなど挑むわけがない
武士から見たら蒙古軍は蛮族であり、全員雑兵みたいなもんだからな
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/index.html

ただし元寇において、敵と交戦状態になる前、まだ余裕のあるときに名乗りを上げる行為自体はされていた
つまり味方同士名乗りあいこれから行う戦闘での互いの働きの証人になってもらうためである。



358 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 16:34:35
日本の農耕馬とモンゴルのモウコノウマをごっちゃに語っているのは思わず失笑
した
ましては軽武備で遊牧用にも慣らしてある馬と鈍重で騎馬戦闘用に作られていな
い重武装の甲冑を着て騎兵訓練を受けていない馬を同次元に語る点は馬の歴史を
知らんのも同然だな


まあ難民だから許そう


359 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 17:04:41
難民だから、蒙古馬と木曽馬が非常に近い種の馬であることや、
日本の馬が日々厳しい騎兵訓練を受けていたことなどの基礎的な
知識も無い奴が書き込んでるのか・・・



360 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/07(日) 18:22:56
>>358
あほ?


361 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 06:31:50
大鎧は騎馬戦闘用の鎧ですが?…


362 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 11:08:01
騎兵訓練ってどういう内容のことだろね
犬追物とかは集団で密集したなかで各人が馬をコントロール(したうえでターゲットの狙撃を完遂する)する訓練だしなぁ

>日本の農耕馬とモンゴルのモウコノウマをごっちゃに語っているのは思わず失笑 した
そもそも馬のサイズの話をしてたのにねw
大丈夫かねこの人


363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 12:26:16
358は手遅れ


364 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/08(月) 13:49:34
>>358は多分釣り
こんなバカがリアルでいるはずが無い
スレを伸ばすための陰謀だ



365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 02:02:28
やっぱアホやな
難民は
ハミや鐙、鞍、蹄鉄など日本では騎兵用には作られていない
いい例が幕末になって英仏から馬や馬具を輸入し騎兵部隊を組織した
もしそんなにご優秀な騎兵部隊があったとするなら武器や軍装を除けば、馬や馬
具そのものを輸入する必然性がないんだよ

モンゴルや北欧の一部は小型の馬だが、もちろん和製馬よりは大きいし、馬具も
騎兵戦闘用に堅固で扱いやすく作られている
日本ではそもそも戦闘に耐えうる蹄鉄がなかった
もしそのように激しく使用すれば蹄が傷付くのは明らか
ナポレオン戦争当時は146cm以上の高さの馬を要求されていたが、戦争が長引く
につれ、消耗し戦争後期には138cm程度に低下するが、馬具そのものが優秀だった
ため騎兵用に耐えうることができた
英国はアラブ馬が流入する以前から良質な大型馬を生育していた
従って英国は騎兵に関しては戦争期間を通してレベルダウンしなかった



366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 07:50:32
現在の流鏑馬なんかは、わざわざ昔の人が使っていた和式馬具を骨董品屋から
取り寄せて行なわれているんだよね。
騎射などの中世の戦闘に関しては、和式馬具の方が性能が優れているんだよ。

それから朱印船貿易の時代には日本の馬も海外に輸出されていたぞ。





367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 12:53:05
>>365
>ハミや鐙、鞍、蹄鉄など日本では騎兵用には作られていない
近代「騎兵」用ではないのまちがいだなw
ドイツやフランス式を習うんだから彼らと同じ道具をそろえるのは当たり前だがね
それに言い方は悪いが授業料だけでは教えてくれんよ。同時に大量の馬や馬具やその他もろもろを買うから向こうにとっては金になるわけで、
「道具は全部自前でできるから教官だけよこせ」で教えてもらえるわけがない。金にならんからな。

西洋馬の馬格が大きくなったのは近代。中世と混ぜられてもね
一方日本は馬の交配に関して未熟だったため時代が下るとともに馬が減っちまったのよ。消費するばっかだったからな。馬格もどんどん小さくなった。
鎌倉時代の日本馬は軍馬として使われたものは骨格からおおむね140センチやね
最も馬が減りだしてもギリギリ鉄砲が間に合ったので、大規模歩兵運用の時代に変化したのであんまり実害がなかった。

騎兵騎兵いうけど日本の武士は騎乗した「砲台」だからなぁ
馬上打ち物や騎馬で歩兵に突っ込むとかなら馬格は大事だろうがろうが
魚の群れの如く集団で移動しながら類を見ない鏃のでかさと矢柄長をもつ矢を
どっかんどっかん射る鎌倉武士にとっては馬の大きさはあんまり意味がないわなぁ



368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 13:02:40
まあ釣られるのはこの辺にしておいてとりあえずお馬さんの絵おいていきますね

てのものふんとりあまたなり
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e02.htm
三井資長、蒙古兵を撃退する
http://www.lib.kyushu-u.ac.jp/gallery/moukoshurai/e03.htm


369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 16:50:39
とりあえず、文永はともかく
弘安は終始鎌倉側が優勢だったと見て間違いないんじゃないかな。

博多周辺に防塁を築いた上で、
主力の関東御家人が配備されていて、
一騎打ちではなく夜討などのゲリラ戦術を多用して
ほとんど元側は対馬とかを除けば、蹂躙できていないみたいだし。

つまるところ、暴風雨がなくても武士で撃退できたとは思うよ。


370 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 16:54:35
文永の役でも一騎打ちなんかしてないよ


371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/10(水) 12:58:46
一騎打ちは武士同士じゃなきゃ成立しない
元寇のときの相手はどこの馬の骨ともわからん雑兵だぞ
上にもあったけど元だの高麗兵だのは「武士」じゃないから一騎打ちなんかしてないよ



372 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 05:05:12
現実的に考えても陸続きではない日本を攻める場合、
なんで馬に乗って攻めねばならないんだ?
軍船の上でも馬に乗ってて軍船に馬を乗せてその馬にのって
日本に攻めてきたとは常識的に考えても考えられないのだけど。
蒙古襲来絵詞に書かれている元側の兵士も馬にのって戦っている訳ではなく、
歩兵のように見える


373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/13(土) 09:10:40
>>372
移動のときにまで乗ってるわけはないって
船の中に馬小屋みたいな施設でも作って運んだんだべ

蒙古襲来絵巻の元軍は高麗軍だから指揮官以外は歩兵が中心
一方別のトコで戦ってた少弐景資らが相手をしていた元軍は劉復享が率いる騎馬兵と歩兵だったとされてる


376 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 14:57:07
http://www.sasakijo.com/kiba.htm
>生物学的には、現在の和種馬の平均体高は130センチである。
>これは数世紀かけて小型化されてきた結果と考えられている。
>駄馬としては、小型の馬のほうが使いやすいのだ。
>戦国期は、おそらく135センチほどの平均体高であったはずである。


377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 21:18:08
木曾馬って可愛い顔してるよね
ttp://misakiuma.net/gallery/katsuyoubagallery.htm


378 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/17(水) 18:04:23
日本の馬はポニーサイズだからというのもあんまりな言い方で、こんな言い方だと一見150kg程度のポニーを連想させるが
鎌倉末期に戦で埋葬された軍馬128体は平均体高130cm、300~400kgはあり一般的な西洋軍馬より小さいとはいえ、
突撃騎兵で有名なスエーデンの軍馬(装備目録によると騎兵用馬は体高113~133cm)より体格はいい。



379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/18(木) 16:14:18
「ポニー」≠「軍馬」って言う日本人の歴史感覚が歪んでるんだよ。
海外の本には「モンゴル軍のポニーはタフだった」とか「ポニーに騎乗したクマン人に騎士たちは蹴散らされた」とか
普通に書いてある。



382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/20(土) 13:31:58
ポニーって言葉を輸入したときにイメージまちがっちゃったわけだな
小型馬だけじゃなく中型馬もポニーなんだな



384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/24(水) 16:42:52



現代の韓寇 対馬住民困惑「韓国人お断り」も 迷惑行為の実態
http://www.youtube.com/watch?v=t6oPJDW3ECs





385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/27(土) 13:25:26
日本の在来馬は消化器官が発達していて
防衛体力が高く骨やひづめが頑丈なのです

蹄鉄が使われなかったのは地形の柔らかさとあいまって「必要なかった」というのが正しい見解ではないかなー




386 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/28(日) 18:23:06
鎧を着けたまま馬上からのドロップキックで敵を落馬させそのまま首を掻き斬る
http://homepage1.nifty.com/sira/taiheiki/iganokami.html
浄妙坊が甲の手先に手を置いて、「悪しう候、浄妙坊」とて、肩をずんと踊り越えてぞ戦ひける
鎧を着けたまま平均台のような橋桁で味方の頭に手をかけて飛び越える一来法師
今で言うフリーランニングに近い身のこなしを身につけていた。
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike2/hei15.html
馬上から巨大な太刀を振るい比叡山軍をなぎはらう佐治孫五郎
大太刀で馬の足を切り敵を吹き飛ばす豪鑒と豪仙
通常剣がもたないはずの峯で殴っても相手が血を吐いて死ぬという非常識なサイズの太刀で雑兵どもの胴体を胴丸ごと割ったと言う福間三郎
http://www.j-texts.com/taihei/tk008.html



387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 13:40:31
日本人が全力で動くとき風のように漂って動く。常に一人で陣に入って、たくさんの兵も抵抗できない。
その刀の使い方は、長い方で構え守り、短いほうで止めを刺す。しゃがんでいるかのごとく低く移動し、決して下がらない。
相手が何人いようと対応する、日本列島の中だけの絶技である。

屈大均



390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 09:28:29

今から十五年前ほどの前、アジア各国の軍部代表がマニラに集まった時のことだ。

韓国の代表が、延々と戦争当時の日本軍と日本民族と現在の日本企業を罵倒する演説を行った。

列席したアジアの親日国の代表達は「痛烈無残で聞くに堪えない韓国代表の演説に不快感を表した。
そして、その場に列席していた日本の自衛官が一言も発しなかった事を大層悔しがった。
そしてインドネシアのアリ・ムルトポ准将は韓国の軍人に向かって次のように、日本を擁護する演説を行った。

「日本はアジアの光である。
大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンとともにアジア人の誇りである」

「ここで、インドネシアの日本民族の価値についての見方を申し上げる。
今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら、アジアとアフリカは非常に困る。
その時に韓国が一番困ると思う。
韓国は工業大国日本と競争したから、立派な工業国になれたのである。
もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人は少なくとも百万人が日本に住み、
日本人と同等の教育を受けるから、その人間関係から日本の技術、市場、金融、スタッフ等活用することができる。
だから企業の成功は容易である。
つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。
経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ」

「インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。
つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と考えている。
日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、アジア・アフリカにつくしている、と考えている。

だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている。

日本から援助をもらうだけで応援しないのでは運命共同体とは言えないし、対等のパートナーとも言えないのではないか」
名越二荒之助 「日韓2000年の真実」国際企画



391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 13:40:54
イイハナシダナー

393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/13(火) 11:39:53

『元はついに武力でわが国を屈服させようと、後宇多天皇即位の年に、高麗の兵を合わせ、
数百艘の船をつらねて、朝鮮海峡を渡り、まず対馬、壱岐をおかし、さらに博多地方に迫りました。
九州の豪族たちが奮戦してこれを防いだので、元軍は深く侵入できずに退却しました。文永末年の
ことでしたので、これを文永の役といいます。』 白鳥倉吉【国史】


394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/24(土) 15:14:21
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1832978

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