支那事変【日本】【支那】【海外】

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1.「ニューヨーク・タイムズ」アーベント特派員の記事
 「日本ハ第一次上海事件ヲ繰リ返スヲ好マズ、忍耐、隠忍以テ、極力
 事態ノ悪化ヲ防止セント努メタルモ、支那ニ於ケル外国権益ヲ渦中ニ
 引キ込ムヲ企図シタル支那人ニ依リテ、文字通リ戦争ニ押シ込マレタ
 ルナリ。」
2.蘆溝橋事件の経緯。日本軍は支那軍の四度に渡る攻撃、七時間を堪えた。

3.日本は二度出兵を決定し、二度まで撤回している。

4.国民党政府は停戦協定に反し、郎坊事件広安門事件を引き起こす。

5.和平交渉が予定されているにも関らず、支那保安隊によって、大山、
 斉藤が虐殺される。


6.「グラン・ゴアール」紙のエドアール・エルセイ特派員が「支那事変
 観たまま」で、日本側が国民党の術中に嵌まったことを記す。

7.昭和二年、漢口のイギリス租界で、中国人とイギリス義勇隊の間に
 争いが起こり、その結果死者がでて、暴徒化した群衆は暴れ放題だった。
 イギリスは極東艦隊を南京に終結し、日本やアメリカやその他、租界を
 持つ国々に共同出兵するよう要請した。
 しかし、幣原外相は駐日イギリス大使ティレーにいくら協力を頼まれて
 も、イエスと言わず、中国への出兵を断固拒否し続けた。
 当時の日本の外交の首脳は、租界が時代遅れであることを他の国々よりも
 先に認識していたのである。
 中国にいる日本人の生命財産を租界を作って、保護することは時代に合
 わないから、危険が生じたら危険でないところに移動させればよいという
 考えだった。
 そのような考え方が、結果的に多くの日本人が残虐な手口で惨殺される、
 という事件が繰り返され、日本国民を憤慨させるとともに、弱腰の幣原
 外交を非難させることになるのだが。


11.昭和二年に起った「第一次南京事件」では、南京に入った北伐軍が暴徒
 となって、外国領事館や外資系の工場や外人住宅を襲い、掠奪や暴行の
 限りを尽くした。
 佐々木到一の「ある軍人の自伝」によると、「逐日耳に入るところの事件
 の真相は悲憤の種だった。英米仏の軍艦はついに城内に向けて火蓋を切った
 のに、わが駆逐艦はついに隠忍した。しかも革命軍は、日清汽船の(ハルク)
 に乱入して、これを破壊し、わが艦を目標として射撃し、げんに一名の
 戦死者を出しておる。荒木大尉以下十二名の水兵が城門で武装を解除された。
 在留外人は全部掠奪され・・(略)わが在留民全部は領事館に収容され、
 しかも三次にわたって暴兵の襲撃を受けた。領事が神経痛のため、病臥中
 をかばう夫人を夫の前で裸体にし、薪炭庫に連行して二十七人が輪姦した
 とか。三十数名の婦女は、少女にいたるまで陵辱せられ、げんに我が駆逐
 艦に収容されて治療を受けた者が十数名もいる。根本少佐が臀部を銃剣で
 突かれ、官邸の2階から飛び降りた。警察署長が射殺されて瀕死の重傷を
 負うた。抵抗を禁ぜられた水兵が切歯扼腕してこの惨状に目を覆うていなけ
 ればならなかった、等々。しかるに、だ、外務省の広報には「わが在留婦女
 にして陵辱を受けたるもの一名も無し」ということであった。南京居留民
 の憤激は頂点に達した。居留民大会を上海に開き、支那軍の暴状と外務官憲
 の無責任とを同胞に訴えんとしたが、それすら禁止された、等々。実にこ
 れがわが幣原外交の総決算だったのである」

 日本領事館に派遣された荒木大尉は途中で中国軍のために武装解除され
 暴行を受けた。
荒木大尉はその時は艦長の指示を守って無抵抗に徹したが、
 釈放されて帰艦し、さらに重巡洋艦「利根」に移ったあと、その艦長室に
 おいて日本の軍人として屈辱に堪えないと言って割腹したのである
 これが日本国民を痛憤させ、幣原外交に対する不信感を醸成した。

12.「第一次南京事件」以来、列国の外交団は蒋介石に対し最後通牒に等しい
 抗議文によって、謝罪と首謀者の処罰を要求するとともに、ただちに軍事
 行動に出ようという意見が強くなった。この時、音頭を取ったのはイギリス
 である。これを知った幣原外相は、イギリスとアメリカの駐日大使を個別に
 呼んで、大要、次のような日本政府の見解を示した。
 「最後通牒を出した場合、それを受諾すれば、蒋介石は屈辱的譲歩をした
 と攻撃され、基礎の十分固まっていない蒋介石政権は潰れる可能性がある。
 そうすれば、国内はふたたび無政府状態になるであろう。これは十数万の
 居留民を有する日本にとっては危険である。また、蒋介石が拒絶すれば、
 出兵して懲罰することになろう。しかし、無数の心臓を有するに似た現状の
 支那を武力制覇することは長期になるであろう。多くの利害関係を持つ日本
 はそんな冒険に加わりたくない」。

 日本が最後通牒にも共同出兵にも参加しないというのでは、イギリスも
 アメリカもフランスもイタリアも、どうすることもできない。英米などの
 提案どおりのことが行われていたら、幣原の言うごとく蒋介石は潰れるか、
 全土が戦場になるかのいずれかであったろう。この時点で蒋介石の国民政府
 を救ったのは、まさに日本外交なのであり、それ以外の何ものでもない。


13.北清事件において、イギリス代理公使は、しきりに日本に出兵を要請したが
 日本は動かず、イギリス外相ソールズベリーリス侯(のちの首相)が欧州
 各国に根回しした上で、出兵を要請するに及んで、ようやく重い腰を上げた。
 そして一たび軍を出すや、その軍律は厳正にして、つねに連合軍の先頭に
 立って力戦敢闘し、列国を感嘆せしめた。
しかも戦争が終わると、さっさと
 引き揚げ、外交交渉にも妥協的だった。




8.大正二年の夏には、三東省と漢口で、日本人の将校が拘禁されるという
 事件が起こり、同じころ、日本人が袁世凱の占領した南京で虐殺されて
 いるが、両事件とも、日本は報復しなかった。

9.大正四年、日貨排斥運動が起こり、漢口では日本商店が襲撃され、三菱
 の支店が焼き打ちされた。
しかし、日本は軍隊を派遣して保護するようなことはしなかった。
 ちょうど同じころ、アメリカの海兵隊はハイチに上陸して武力鎮圧を行
 っていた。
10.大正十四年、ワシントン条約の線に沿って、中国にある日本の利権の
 縮小方針をさらに進め
、北京で開かれた関税特別会議においては、中国の
 関税自主権回復の要望に日本が協力する旨を公表し
、中国側を驚喜させ、
 列国側を愕然とさせた。
 このときの日本側は、あまりにも中国に対して同情的であったので、アメ
 リカやイギリスの方にかえって不満が生じ、「日本は列国に抜け駆け
 している」とか、「幣原外交対支協調破りだ」という非難の声が上がるほ
 どだった。
 しかし、列国としても日本の正論と、それに対する中国側の熱烈賛同に
 は反対できず、結局は日本の声明に追随し、関税自主権回復の決議案を
 可決せざるを得なかった。


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