支那事変を仕掛けたのは中国共産党だ 【日本】【支那】【海外】

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日本は仕掛けられ、平和を申し込むがズルズルと深みにはまっていった

支那事変を仕掛けたのは中国共産党だ

昭和12(1937)年7月7日の深夜盧溝橋(ろこうきょう)で、中国側の
了解を得て日本軍が演習をしていました。
中国へ日本軍が駐屯していたのは、侵略の為ではありません。
清国が各国に対して(我が国も含む)駐兵権を認めていたのです。
その駐兵権に基づいて駐屯していたのです。日本人(当時朝鮮人を
含む)を守っていたのです。
その当時蒋介石軍と日本軍は親しくして何ら争いがなかったのです。
深夜突如として日本軍と蒋介石軍に不法射撃をして姿を消した者があ
ったのです。
両軍は互いに相手を疑い戦争が起きました。後になって劉少奇(リュ
ウショウキ:中国共産軍)がスターリン(ソ連)の命令で俺がやったと
名乗り出ました。これが支那事変となり、大東亜戦争にまで発展した
のです。

我が国は不拡大の方針、侵略の意思全くなし

我が国は事件発生当初から不拡大方針をとり現地部隊は数度の不法
射撃に対しても、7時間にわたって一発の応射もせずに隠忍自重(いん
にんじちょう)を堅持しました。
又政府も陸軍中央も現地解決を期待して、3週間不拡大方針に基ずい
て事態の推移を注視し続けましたが、中国側の度重なる停戦協定違反と
背信に、7月28日遂に開戦に踏み切り翌29日平津地方に進攻したのです。

我が国は中国側へ停戦交渉を行う

天皇陛下は外交解決を御希望され、その御意志を体して政府、軍部は
一致協力、思い切った譲歩案で、中国側の要望をほとんど容れた寛大な
ものでしたが、日華交渉が開始された8月9日、支那保安隊による大山中
尉惨殺事件が上海に発生し、交渉は即日中止されました。戦火は拡大し
日華全面戦争となり、名称も支那事変となりました


南京陥落後平和を望む日本に戦争を煽(あお)ったルーズベルト

そして12月南京は陥落しました。
この間も我が国はドイツを仲介として「平和交渉」に努力したのです。
蒋介石は日本との戦争を止めたいとルーズベルトに申し出ましたが、ル
ーズベルトはそれを許さず、アメリカも手を貸すからと、抗戦の続行を
命じて蒋介石を励ましたのです。


米英は武器を持って中国軍に参加していた

イギリス、アメリカ、フランスは国際法による中立的立場を放棄して
蒋政権に援助行為を行い、物資のみならず蒋政権を助けた英米軍事顧問
団は数百にのぼり、武器をとって戦闘に参加した人は2千名を越えていた
のです。

米国は対日経済封鎖とビルマの援蒋ルートで圧迫した

英米は蒋介石を助け援助して、日本には経済圧迫を加えて、
支那の抗日戦意をあおり、日支の抗争をを長引かせ、泥沼化
させたのです。
事変解決を希望する我が国がビルマの援蒋ルート遮断を考えた
のは当然です。
昭和15(1940)年9月、我が国はフランスと2ヶ月の外交交渉
の末、松岡(外相)アンリ(駐日大使)協定を締結し、これに
基づき、支那事変解決までの一時的措置として北部仏印に若干の
部隊が駐屯することになり、わずか6千人以下でした。

米国は、日本のみを非難した

英国はそれより4ヶ月早く2万もの兵士をアイスランドに駐屯
させ、ソ連はバルト3国に10万の軍隊を進駐させていたのです。
白人の侵略は当然として認めていた時代だったのです。
国際道徳は大東亜戦争(太平洋戦争と米国はいう)後にようや
く成立したのです。


ルーズベルトは戦争の起こる危険を承知で日本に石油を止める

悪化した日米関係を好転させることと、支那事変解決促進のた
め、昭和16(1941)年から日米交渉が開始されました。
日本は屈辱的な譲歩を以て米国の意に添おうとしましたが、ルー
ズベルトは理解せず難航しました。
蘭印(オランダ、インドネシア)との経済交渉も米英の妨害策動で
不調に終わり、我が国はいよいよ自存自衛の途を確保する必要から
フランスとの協定に基づき、7月末南部仏印(ラオス、ベトナム)
に平和進駐しました。
この南部仏印進駐に対して米英蘭中は全面的に経済封鎖を行い、
ルーズベルトは我が国の在米資産凍結、全面的禁輸を行い英蘭(イ
ギリス、オランダ)も追随しました。
米国大統領ルーズベルトは、対日石油禁輸が戦争を導く危険を十
分に知っていてやったのです。ルーズベルトは我が国の南部仏印進
駐より3ヶ月早くグリーンランドに、又アイスランドに進駐していた
のです。

米、英首脳日本占領の密約

7月から8月にかけて日米関係は急迫し、近衛首相は首脳会談を決
意し、天皇陛下も望まれて、米側に申し入れましたがルーズベルトは
これを拒否しました。
ルーズベルトとチャーチルの米英首脳は大西洋で対日戦争での協力
を約束し合っていたのですから、我が国がどんなに誠意を尽くしても
日米交渉が進捗するはずがなかったのです。

ルーズベルトは頑固に姿勢崩(くず)さず

昭和16(1941)年9月6日御前会議が開かれ「外交努力を継続しつつ
も、10月下旬を目途に戦争準備を整え、10月上旬に至っても交渉が成
立しない場合は対米(英蘭)開戦を決意する」を決定しました。
10月下旬が過ぎても米国はかたくなに姿勢を崩さず、外交交渉は行
き詰(づ)まりました。我が国は石油禁輸以来、2ヶ月後には国家機
能は完全に停止する事が明白でした。

どうしても戦争をしたかったルーズベルト

近衛(このえ)首相に変わって東條内閣が成立し、天皇陛下より
「9月6日の御前会議にとらわれず慎重に再検討するように」と思召
(おぼしめし)が伝えられ、東條首相は御意向を体して、甲案は支那
や仏印からの撤兵について具体的な条件や方法を示すなど我が国とし
ては重大な譲歩であり三国同盟などその他譲歩を含むものであり、
東京裁判の米国人弁護士ブレークニー氏は「日本の真に重大な譲歩は
東條内閣の作成した甲案であり、甲案において日本の譲歩は極に達し
た」と論じています。
又、乙案は甲案不成立の場合、戦争勃発を未然に防ぐ為の暫定(ざん
てい)協定案でした。
ルーズベルトは日本の切実な気持ちを知り尽くしながら11月7日甲案
を拒否し、11月20日乙案も拒否し、有名なハル・ノートを突き付けて
きたのです。
パール博士はこのハル・ノートについて「米国が日本に送ったのと
同一のものを他の国に通告すれば非力なモナコやルクセンブルク大公国
ですら必ず米国に対し自衛の為に武力をもって立ち上がったであろう」
と言っています。
「日米交渉は、最初から平和的解決をするチャンスは、100分の1もなか
った」 米国ハル国務長官供述書より

ルーズベルトの恐ろしい陰謀

ルーズベルトは「攻撃を受けた場合の外は国民を戦場に送らない」と
いう公約をしていたので、日本から攻撃させる必要がありました。
老朽船3隻に米国旗を立てて、日本軍艦に接近させ、日本軍艦に接近
させ、日本軍が撃ってくるのを挑発したのです。
しかし、日本は静かにしていました。
米国アナポリスの海軍研究所から『ラニカイ号の巡洋航海、戦争への
挑発』という書物にルーズベルトの陰謀が暴露されています。
「どのように日本を操(あやつ)って我々の損害は少なく、いかに最初
の一発を発射させるように追い込むかが問題だとルーズベルト大統領は
語った」 米国スチムソン陸軍長官の日記より

先制攻撃はアメリカであった

ルーズベルトの苦労にもかかわらず、日本のハワイ襲撃1時間20分前に
公海において米国は日本の潜水艦を攻撃して撃沈させているのです。
そして海軍司令部に「日本の潜水艦を撃沈せり」との暗号電報を発して
いたのです。
敗戦後、日本が米国へ無通告でハワイを襲撃したと逆宣伝されて日本国
民でも信じている人が多いのですが、米国との戦争も米国が先制攻撃をし
たのです。

※参照 米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類第75(1945年6月7日)
による。
日本語訳は『現代史資料』35巻(みすず書房)407ページ~409ページ



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コメント
この記事へのコメント
  1. ここの管理人は毎日新聞ネタはとりあげないの?  2008/07/17(木) /04:59

    ここの管理人は毎日新聞ネタはとりあげないの?
    http://jp.youtube.com/watch?v=RRgoQcfUiTQ

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